主日礼拝説教

聖なる方に倣って

(申命記26章16~19節、ペトロの手紙一1章13~16節)

「聖なる方に倣って」

「だから、いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みをひたすら待ち望みなさい」。 キリストが現れるときに備えるために必要なことを二つ揚げています。一つは、心を引き締める、二つ目は、身を慎むことです。「心を引き締め」は直訳すれば「あなたがたの心の腰に帯を締めなさい」と訳せます。 古代の人々は、外出や労働のために幅の広い上着を羽織ります。その際、腰のあたりで帯びをしめます。腰帯をしめることで、外出のためのすべての準備が整っていることを表したのです。
イスラエルがエジプトから出てくる前夜に、最初の過ぎ越しがありました。過ぎ越の食事は、酵母を入れないパンと一歳の傷のない小羊を食べます。その時に、神はイスラエルの人々にこういって注意をました。「それを食べるときは、腰帯を締め、靴を履き、杖を手にし、急いで食べる」(出エジプト12章11節)。主がこう命じられたのは、イスラエルがいつでもエジプトから出発できるように準備をするためでした。大事な時に備えるためです。
「腰に帯をしめ、主人が婚宴から帰って来て、戸をたたくとき、すぐにあけようとして待っている人のようにしていなさい」(ルカ12章35~36)。これは、いつも主の再臨に備えて待つことです。 それを具体化した言葉がペトロの手紙の中にも多く見られます。「異教徒の間で立派に生活しなさい…すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝(指導者)を敬いなさい」(ペトロ一2章12~17)。奴隷たちには、寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人の下でも従順に仕えること(ペトロ一2章18)。「夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるため」(ペトロ一3章1)。 この手紙が書かれた時代は、迫害の激しくなってきた時代です。「あなたがたを試みるために降りかかる試練を、何か思いがけないことが生じたように驚きあやしんではいけません」(ペトロ一4章7)。キリストもわたしたちの罪が赦されるために苦しみを受けられたのです。
キリストを待つために必要な二つ目のことは「身を慎んで」いることです。身を慎むことは、目覚めていることは深い関わりがあります。「身を慎んで、目を覚ましていなさい。あなたがたの的である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい」(ペトロ一5章8~9)。目を覚ましている理由は、いつ主イエスがおいでになるのか、わたしたちが知らないためです。その日、その時をわたしたちには知らされていません。だからこそ、キリストの再臨のために、「身を慎み、目を覚まして」準備しておくことが必要です。悪魔のねらいは、キリストを迎えるための準備からわたしたちの心をそらせることです。 「無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順な子となり、聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なるものとなりなさい」(14~15節)。罪深いわたしたちに、主は聖なるものになりなさい告げています。
無知であった頃の欲望とは、何のでしょう。ここで言う無知とは、まことの神について無知であることです。まことの神を知らなければ、救い主であるキリストも知らない。神を知らなかった時のわたしたちのことです。 従って、聖書で言う真の知恵や知識とは、主を知ることです(箴言1章7)。ここでいう無知な頃の欲望とは、神を知らなかったころのわたしたちが求めたことです。神を知らない頃のわたしたちは、自分第一、欲しいものは何でも手に入れることが出来るような自分になるために、知恵や力をつけるために必死でした。 しかし、この世の知恵は、まことの神を知ることはできません。神を知らなければ、人が何のために生きるのか、人間はどうして死ぬのかも分かりません。まことの神を知ることは、最も大事なことです。しかし、わたしたちはついそういうことをおろそかにします。
人は、なぜ死ぬのか。なぜ生きているものは必ず死んで行くのか。聖書は一つの明確な答えを持っています。人間がまことの神との交わりを捨てたから、死がこの世に入ったのです(ローマ5章12)。神は、この世界のすべてを造られた時、わたしたち人間を御自身にかたどって造られました。わたしたちは、神に似たもの、神の栄光をあらわす器であったのです。神との交わりの中で、神と共に永遠に生きるべきものだったのです。 神はわたしたちを信じて、最初の人間アダムとエバにエデンの園の管理を任せてくださったのです。神はアダムとエバに一つ約束しました。「園のどの木からも取って食べなさい。但し、園の中央の善悪を知る知識の木からは、決して食べてならなない。食べると必ず死んでしまう」(創世記2章16~17)。神はわたしたちが約束を守ると信じてくださいました。神がわたしたちを信じてくださったのに、わたしたちは神を信じないで、約束を破りました。わたしたちは、神を信じなかったから、わたしたちが神を捨てたから死すべき者となったのです。
それでも神は、わたしたちとこの世界を見捨てませんでした。イスラエルを選び、彼らを通してすべての民にも救いが及ぶように計画されたのです。「あなたは宝の民となり、すべての戒めを守るであろう」(申命記26章18)。神は、イスラエルを信じて御言葉を委ねました。しかし、神はご存じでした。イスラエルが信仰の弱いものたちであり、罪深いものたちだと。それを知りながら、彼らを御自分の民、御自分の子として受け入れ、信じて御言葉を委ねてくださったのです。われわれ教会も、キリストを通して福音を委ねられています。いつも神は誠実であったのに、わたしたちが神を裏切っていたのです。終わりの時に、神は御子をくださいました。「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」(マタイ21章37節)。ところがわたし達は、御子を信じるどころか十字架に付けてしまったのです。もう御子を殺したわたしたちに救いの道は絶たれたかと思われました。 しかし、神はわたしたちが殺した主イエスを三日目に死人の中から復活させました。御子の復活によって、罪人のわたしたちに神は最後の希望を与えてくださいました。御子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得ることです。この希望はわたしたちを裏切ることはありません。
この希望によって、生きている時も死ぬときもキリストがわたしたちを慰め主となります。わたしがわたし自身のものではなく、唯一人の救い主であるキリストのものであること。キリストゆえにわたしたちは死んでも生きるものとされたのです。  「あなたがたは、終わりの時に現わされる救いを受けるために神の力により信仰により守られているのです。」(ペトロ一1章4~5節)。わたしたちのいだいている希望は、キリストが再び来られる日に完全な形であらわれます。その時わたしたちは、朽ちず、汚れず、しぼまない神の国を受け継ぐもの、永遠の命を受け取るものとなるのです。 その日が来るまで、信仰の戦い、苦しみ、迫害もあり得ます。だから、心の腰の帯を締め、身を慎むことが大事です。それは言い換えれば、いつも目覚めて祈っていることです。そのために主の助けが必要です。主イエスがゲッセマネの園で祈っていたとき、一緒にいた弟子たちにこう言われました。「誘惑に陥らないように目を覚まして祈っていなさい」(マルコ14章38)。しかし、弟子たちは一時も主イエスと共に目を覚まして祈り続ける事ができませんでした。主イエスお一人が目を覚まし祈り続けてくださったのです。主イエスがわたしたちと共におられ、信仰の弱いわたしたちのために神に祈ってくださいます。わたしたちが祈るために聖霊を与えてくださっています。聖霊の助けによって、わたしたちがいつも目覚めて祈ることができますように。
主イエスキリストの父なる神さま、 われわれは、自分の信仰の力に頼ったら世の誘惑にも、悪の攻撃にも決して決して勝つことはできません。主イエス・キリストの力と、聖霊の助けによって、わたしたちを信仰の戦いに勝たせてください。  

(説教者:堀地敦子牧師)