主日礼拝説教

キリストの足あと

(エレミヤ書31章7~10、ペトロの手紙一2章18~25)

キリストの足あと

キリストの足跡に続くように、ペトロの手紙の言葉を通し、神はわたしたちを招いておられます。キリストの足跡の続く、すなわちキリストが残された模範に従うようにと、述べられています。
キリストがわたしたちに残された模範とは、なんでしょう? それは、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶことです。よいことをするのに、なぜ苦しまねばならないのでしょう? よいことをしたら、皆に喜ばれ、ほめられるのではないかと、ふつう考えます。けれども、わたしたち信仰者に求められているのは、キリストにならうことです。人に喜ばれることをするのではなく、神に喜んでいただける生き方をする。つまり、神の目に善と映ることをなす、ことです。人の目によいと思われることをしたなら、人びとに歓迎され、世のほまれを受けるでしょう。でも、神がわたしたちに望んでおられるのは、キリストがなさったように、神の御心を信じ行うことです。キリストは世の人びとから憎しみを受け、罪などひとつも働かなかったのに、十字架につけられ命を奪われました。
今でこそ、キリストのことを悪く言う人は、そんなにいないでしょう。けれども二千年前、キリストは皆に歓迎されたわけではありません。悪く言う人も決して少なくありませんでした。キリストの語る言葉に心捕らえられ、いやしの奇跡を目の当たりにした人びとは、キリストを喜んで受け入れました。けれども、むしろ、キリストの言葉に反発し、奇跡が行われる度に、これは悪魔の働きだといって、反対した人びとの方が多かったのです。
それは、キリストが、わたしたち人間の思いを超えて、神の御心にどこまでも忠実に歩まれたからです。神の御心にどこまでも従い、僕の身分をとって、十字架の死に至るまで従順であられました。それゆえだれが理解しなくても、父なる神がキリストを喜び、その名を栄光あるものとなさったのです。

今朝読まれたペトロの手紙の言葉は、奴隷たちに向けて書かれた形になっています。「召し使いたち、心からおそれ敬って、主人に従いなさい」。良い主人だけでなく、無慈悲でいじわるな主人であっても、心から従いなさい。
ところが、先読み進めていきますと、これは当時、奴隷の身分にあった人たちだけに特別に語られた言葉ではない。むしろキリストを信じて生きるすべての者たちに向けられた言葉だということに、気づかされます。なぜなら、だれもが「この世の主人」に苦しめられているからです。仕事やお金、人間関係からくる圧力、悩み。身分としての奴隷でなくても、さまざまな仕方で、不当な苦しみにあっています。この世を生きるわれわれ人間の宿命です。
しかしペトロは、こう続けます。
「不当な苦しみ」にあっても、その苦しみは神が与えているものだと気づいて、耐え忍びなさい。それは御心にかなうことです。善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、それこそ神の御心にかなうことです。「神の御心にかなう」生き方が、くりかえし述べられています。そして、「神の御心にかなう」最善の道が、キリストにならうこと、だというのです。
善を行うとは、わたしたちが自分の価値観で良いと思うことではありません。キリストのために生きることです。キリストを信じ、この方をほめたたえて、愛の業に生きるとき、この世でかえって苦しみを受けます。なぜなら、この世は神とキリストを受け入れないから、神に敵対しているからです。そのような世界の真っただ中で、わたしたちは信仰をもって暮らしています。ですから、苦しみは避けられません。少なくとも、地上でこの世を生きている限り、信仰ゆえに誤解され、さげすまれ、苦しめられることから、逃げることはできないのです。
それなら、地上での苦しみに、どのように向き合えばよいのでしょうか? いやいや、しぶしぶ、仕方ないといって、信仰の戦いをしているのでしょうか? いいえ、キリストのゆえに苦しみを受けるとき、そこにかえって恵みがある。そのことに気づかされます。
苦しみを受け入れるために、わたしたちは召されました。そうペトロは語ります。しかし、苦しみを味わうとき、わたしたちは決して一人ではありません。キリストが、わたしたちのために、すでに苦しみを受けておられます。わたしたちが苦しむよりもっと前から、わたしたちが苦しむ以上に、キリストは苦しまれました。わたしたちのために。しかもキリストは、十字架の上で苦しまれたとき、「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅」しませんでした。「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽り」がありませんでした。
かえって、すべてを正しくお裁きになる神様に、ご自身のすべてをゆだねていかれました。十字架の上でご自分を神にゆだね切って、そうしてキリストは、わたしたちの罪をひとつ残らず担ってくださいました。償ってくださいました。わたしたちが、罪に死んで、新しい命に生きることができるようにするためです。キリストが十字架の上で受けたあの傷によって、わたしたちはいやされたのです。罪の傷をいやされ、神の子どもとして新しく生き始めることができました。
わたしたちのため、キリストは、苦しみをよろこんで受け入れていかれました。そのキリストが言われます。今度はあなたがたが、わたしの足跡に続くようにと、自ら模範を残されました(21節)。
神様のために、イエス・キリストのために、喜んで苦しみを受け入れていく。また、隣人の救いのために、よろこんでこの身を献げていく生き方、神と隣人のために、犠牲をいとわない人生。キリストのように生きることです。「今度はあなたがたの番です」と、新しい生き方に、神がわたしたちを召しておられます。キリストがその模範です。
とはいえ、本当にそんな生き方ができるだろうか? はたしてこのわたしに? それが正直な思いです。口で言うのは簡単です。でも実際は? こういとき、自分にはできると自信たっぷりの人がいたら、かえって真実味がない、というものでしょう。

聖書が語る言葉に、もう一度聴いていきたいと思います。
キリストが、わたしたちのために模範を残したといわれています。ここで言われる「模範」とは、実は、字を書くときのお手本のことです。むかしギリシアでは、石の板に鉄のペンで字を書きました。正しく美しく字をかくために、先生が自ら書き記してくださったお手本です。日本流にいえば、お習字の手本です。習字のお手本は、それを下敷きにして、その上に紙を置いて、筆でなぞります。キリストが模範といわれると、わたしたちよりはるか遠く、はるか先を歩いておられて、とても追いつけない。キリストのようになれるわけがない、と恐れます。たしかに、一朝一夕に、一夜漬けのようなことをしても、キリストのようになれるわけはありません。
けれども、わたしたちよりはるか上におられ、神のようなキリストが、わたしたちのところに降りてこられるのです。わたしたちのお手本となったキリストは、わたしたちより下に身を置きます。そこで、キリストというお手本の上に、わたしたちは身をあずけます。お手本の紙と、わたしという紙が、文字通り表裏一体となります。わたしという人間は、どこまでも薄っぺらな人間です。でも薄っぺらだからこそ、すぐ下にあるお手本、キリストのお姿が透けてみえてきます。その上を、なぞっていくのです。わたしたちの筆使いはたどたどしく、キリストをなぞっても、すぐに、ずれてしまう。半紙から筆が飛び出してしまう。キリストがお手本になってくださっているのに、あまりの悪筆に、自分がいやになってしまう。そういうときもあるでしょう。それでもキリストは、わたしたちのすぐそば、すぐ下にいて、わたしたちに張り付いて、わたしたちの手本でありつづけます。「さあ、わたしをなぞってごらん。わたしの足跡の上を歩いてごらん。」 辛抱つよく、忍耐強く、救い主は、わたしたちを、御自身に似た者にしようと、われらを導き養うことを止めようとなさいません。
われわれが苦しみを忍耐していけるのは、このキリストがわたしたちに張り付いていてくださるからです。わたしの罪のために、あの苦しみを忍耐してくださったキリスト。決して御自身では罪を犯さず、いわば不当な苦しみを、わたしたちのためにすべて受け入れていってくださったキリスト。そのキリストがわたしを招いてくださっています。わたしに続けと、主がわたしを召してくださっています。
だからわたしたちも、あきらめません。やる前からあきらめてしまいそうなわたしたちですが、キリストはわたしたちの手を取って、わたしたちを導くことをお止めにならない。ちょうど、お習字の先生が、生徒の背後に立って、筆を持つわたしたちの手に手を添えて、お手本の文字を一緒になぞってくださるように。キリストは今も、背中からわたしたちに覆いかぶさって、キリストの愛をなぞるように、苦しみと忍耐の道をなぞるようにと、わたしたちの手をとってくださっています。これまで信仰の道を歩み続けてこられたのは、実にこのキリストのおかげにちがいありません。
この方こそ、真実な牧者。信仰と不信仰の間を行ったり来たり、うたがい迷いの中をさまようわたしたちを、今日もとらえて離さない魂の牧者が、わたしたちのすぐ後におられます。荒海のようなこの世界を、先頭を切って進み、神の国と救いの完成へわれらを導くイエス・キリスト、その足あとをわたしたちも踏んでまいりたい。あらゆる苦しみをわたしたちのために受け入れ、忍耐されたキリスト。この方のご生涯をなぞるようにと、わたしたちを招き入れてくださった神に、わたしのすべてをゆだねて、召された道を終わりまで共に歩み続けたいのです。それこそが、主が再び来られる日を待ち望む日々でありましょう。

(説教者:堀地正弘牧師)