主日礼拝説教

天からのプレゼント

ルカによる福音書2章1~7節

天からのプレゼント

この年もまもなく暮れようとしています。この年、皆様にとって、どのような一年だったでしょうか?

期待に胸を膨らませて始まった一年も、実際すごしてみれば、恐れや不安が入り混じった日々が多くありました。なにより災害の多い一年でした。光よりも闇が、希望よりも失望が、わたしたちの身の回りや世界中をかけめぐっているようにも感じられます。そのような折、あらためてクリスマスの意味を確かめたいと思うのです。

クリスマスは、二千年前ユダヤでお生まれになったイエス・キリストを祝う日です。ただし聖書のどこを探しても、キリストの生年月日は出ていません。キリストの誕生日は、今なお謎で、はっきりしたことはわからないのです。のちの時代に、教会は、12月25日をキリストの誕生を祝う日として定めるようになりました。

すでに12月に入る前から、日本中で、この静岡でも、美しいイルミネーションが光を放ち、クリスマスの到来を告げてくれました。日常がどれほど暗く、思うにまかせなくても、クリスマスだけは、皆で明るく楽しく過ごそう。そうしたイメージが定着しているように思えます。

けれども聖書をみると、もともとのクリスマスは決してそうではありませんでした。むしろ闇、暗闇のイメージです。クリスマスそのものが闇なのではありません。うす暗い闇の中で、クリスマスの出来事は起こりました。そういう時代に、神は救い主をお送りになったのです。

キリストがお生まれになった二千年前、ユダヤの国は、ローマ帝国の支配を受けていました。ローマは、歴史上まれにみる軍事大国・経済大国で、長らく「ローマの平和」を実現していました。この平和はしかし、強大な軍事力を背景にしたものです。お金の力、武力と権力で国々を飲み込んでは、大きくなっていったのがローマです。そのローマ皇帝が、植民地であるユダヤの全領土に、住民登録をするよう命じました。目的は主に二つです。新たに税金を集めるため、兵士として集める男性の数を把握するためでした。

ユダヤの人びとは、もうすぐ戦争が始まるのではないかと不安になりました。これまで以上にたくさんの税金を取り立てられて、夫や息子たち孫たちが戦争に取られてしまうのでは? こうした恐れや不安の中、キリストはお生まれになったのです。

住民登録が命じられると、国の至るところで、人々の移動が起こりました。人口調査といっても、今のように家にいて、書類に書き込むのではありません。それぞれ生まれ故郷、本籍地へ行って、住民登録をしなければならなかったからです。ヨセフは、ガリラヤというユダヤの北の地方で暮らしていました。しかしダビデの血筋を引くヨセフは、本籍地ベツレヘムまで、マリアと共に出かけます。ガリラヤから南のベツレヘムまで、およそ200KM近くの道を、もうすぐ赤ちゃんが生まれるマリアを連れて、歩いて旅をしました。ベツレヘムまでの道は、山あり谷ありの山道です。追いはぎや強盗が出ることも珍しくありません。多くの危険と背中あわせです。ヨセフとマリア、そして母親の胎内にいた幼子は、おおげさではなく、命がけで住民登録に出かけなければなりませんでした。

ようやくベツレヘムにたどりつくと、息つくひまもない有様でした。国中から大勢の人びとが、住民登録のために集まり、どこもかしこも、ごったがえしておりました。宿屋を探しても、もうマリアとヨセフが泊まれる場所は、どこにもありません。身重の女性を連れての旅でしたから、早めに出発しても、途中で、大勢の人びとに追い越され追い越されて、やっとの思いで、期日まじかにたどりついたのでしょう。

ほどなく、身重のマリアは産気づきます。初めての出産です。我が家でも病院でもなく、遠い旅先で、しかも宿屋に部屋はありません。どれだけ不安と心配の中に、マリアはいたことでしょう。そういうなか産み落とされたキリストは、布にくるまれ、飼い葉おけの中に寝かされました。飼い葉おけとは、羊や牛など家畜に餌を与えるときに使う、えさ箱のことです。生まれたばかりの幼子は、柔らいベッドではなく、石をくりぬいた堅く、冷たい、飼い葉おけの中で、産声を上げたのです。

これが、二千年前イエス・キリストがお生まれになった夜の出来事です。

今でこそ、世界中の人びとが、その誕生を喜びお祝いしているクリスマスです。でも、最初のクリスマスは、そうではありませんでした。寒くて暗い夜空の下で、屋根のある部屋にさえ入ることができずに、その誕生を喜び歓迎した人々は、ほとんどいませんでした。このあと、天使や羊飼いがやってきて、生まれたばかりのキリストを拝み、礼拝します。遠い外国から、博士たちが訪れ、幼子キリストを拝み、黄金などのささげものをいたします。でも、それはキリストがお生まれになった少しあとの出来事です。キリストがお生まれになったその瞬間には、ヨセフとマリアのほかには、居合わせた人びとはいません。キリストを歓迎する人びとも、救い主の誕生を高らかに賛美する天使たちも、まだ登場しません。

きらきらと光り輝くカラーの世界ではなく、真っ暗な夜空に星空だけが輝く白黒の世界、それが最初のクリスマスです。静かな、物憂げな、重苦しい空気にだれもが包まれているとき、モノトーンの世界で、キリストはお生まれになりました。夜の闇の静けさの中、ただ幼子キリストの泣く声だけが響き渡っていたことでしょう。

この救い主のうぶ声だけは、だれにもかき消すことはできません。たとえ現実の世界がどれほど闇に満ちていても、わたしたちの心が不安と恐れに押しつぶされそうでも、神がお与えくださった救い主の泣き声は、だれにも止めることはできなかったのです。救い主キリストの泣きじゃくる声は、こうして、わたしたちの耳にも確かに届きました。このうぶ声こそ、救いの知らせ。クリスマスの夜、神が私たち人類に与えてくださった、最高のプレゼントです。救いの訪れを知らせる神の声が、独り子キリストがあげるうぶ声となって、わたしたちの耳と心をとらえ、わたしたちの全身を包み込んでいきます。

救い主があげた産声は、ガリラヤの村から始まってユダヤ全国、ローマ全土へと響き渡りました。救いをしらせる産声は、海を越え、時を超えて、ついにわたしたちの暮らすこの土地まで、わたしたち一人一人にも届いています。このうぶ声は、聖書にしるされたイエス・キリストの御言葉となって、今確かに、わたしたちのところにも届けられています。

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」(マルコ1章15節)。
「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである」(マタイ5章3節)。

さらにクリスマスの夜、キリストがあげた産声は、キリストがご生涯の終わりに、わたしたちのために十字架におかかりになった時、わたしたちを罪から救う叫び声となって、世界中を駆け巡りました。

「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」(マタイ27章46節)。
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23章34節)。
「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(同46節)。

「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら」、わたしたちを救うために、祈りと願いを神にささげました。だれよりも深い闇を味わったキリストだから、できました。世を照らすまことの光となられました。クリスマスの夜、ベツレヘムの村で貧しくお生まれになったキリストこそ、わたしたちの希望、永遠の救いの源です。

うぶ声であれ、叫び声であれ、キリストの御声を聴いて生きるなら、どんな暗闇の中でも、キリストがわたしたちの希望、慰め、そして光となってくださるでしょう。

まもなくこの一年も終わろうとしています。だれもが、歳をひとつ、新たに重ねます。歳を重ねていくたびに、わたしたちは思います。今までできていたはずの、あれができなくなった。これもできなくなった。今までのようにはいかない自分を、知っています。

けれども、キリストは、自分では何もできない乳飲み子となって、わたしたちを救いに来てくださいました。そして、何もできなかったはずの幼子キリストが、その産声、存在そのもので、わたしたちの世界に救いをもたらしてくださいました。これはまぎれもない事実、歴史的な事実です。

あのマザーテレサも、アフガニスタンで凶弾に倒れた中村哲医師も、クリスチャンでした。飢えと病と絶望が支配する世界に、愛の闘いを挑みました。その結果、神の助けによって、人びとの心を愛で満たし、大地を潤し、命の水をもたらす尊い働きをなさいました。あの方たちもまた、キリストのうぶ声を聴いたにちがいないのです。

キリストの放つ声が、今もこの世界をかけめぐっています。今わたしたちも、その声を耳にしました。この声こそ、天からのプレゼントです。キリストの放つ御言葉の一つひとつが、わたしたち一人一人とこの世界の未来を必ずや変えてくださるでしょう。

救い主キリストに望みをかけるなら、その人生は、決して失望に終わることがありません。

(説教者:堀地正弘牧師)