主日礼拝説教

言は肉となって

出エジプト記31章18節ヨハネによる福音書1章14~18節

言は肉となって

かつてイスラエルの人々は、長いことメシアの到来を待っていました。その方が来られたら苦況にあるイスラエルを救ってくださると信じていたのです。ところが、実際にこられたメシアは、人々の考えを超えた方だったのです。何故なら、この方はイスラエルの枠を超える全世界の救い主だったからです。それでヨハネは、福音を天地万物の初めから書き起こしました。「初めに言があった」。初めとは、天地万物が造られるよりももっと前の初めことです。永遠の初めといいます。

様々な偶然が重なって、この世界ができた、地球が生まれ、人間が生まれた。人間がいるから言葉が生まれた。それがわたしたちの常識です。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。…万物は言によってなった。成ったもので言によらずに成ったものはなにもなかった。」聖書は、わたし達の中のこの順序を覆してきます。この世界は、偶然生まれたのではなくわたし達も偶然ここにいるのではありません。この世界も、わたしたちも神の言によって造られたのです。すべてのものが造られる前から神と共にあった言(ロゴス)、それが独り子なる神です。

「言は、肉となって、わたしたちの間に宿られた」。「宿る」は「幕屋を張る」という意味の言葉です。この言葉を聞くだけで、ユダヤ人たちは、荒れ野のイスラエルを連想することが出来ました。神は、荒れ野で幕屋(テント)を張って旅をするイスラエルのただ中に幕屋を張るように共におられました。イスラエルの人々は、昼は雲の柱、夜は火の柱として、あらわれた神の栄光を見ました。

新しい時代に御子イエスは、人となってわたし達のただ中に幕屋を張ったのです。すなわち神の御子イエスは、わたし達と同じ肉体、地上の幕屋を持ちました。御子は、永遠の初めから神と共におられた方で神に等しい方なのに、あえてわたしたちと同じ肉の弱さを持つ人間に成ったのです。肉の体を持つことは、弱さを身に纏うことです。暑さ、寒さ、空腹、喉の渇き、様々な病気やけがなど、わたしたちの世界は体にダメージを与えるもが何と多いことでしょう。人間の体は、わたしたちが思う以上に弱く繊細です。わずかな環境の変化でも体が弱ってしまうことがあります。しかも、イエスは神の子なのにわたしたちと同じように、赤ちゃんとしてこの世に生まれてきました。赤ちゃんは、誰かの世話を受けないと何も出来ません。自分の身を守ることもできません。御子は、まったく無防備な姿で世に来られました。それは、御子によってこの世が救われるためです。

「わたし達はその栄光を見た。」(14節)。神の御子が、弱く無防備な体を持って生まれた。そこに、ヨハネは神の栄光を見たのです。「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(ヨハネによる福音書1章11)。イエスは、先ず御自分の民イスラエルのところに来ました。何故ならイスラエルの民は、世界で最初に神の約束を受け取った者たちだからです。だから、神はまずご自分の民のところに行きました。イエスは、ご自分が神が約束してきたメシアであること様々な「しるし」によって人々に示しました。最初のしるしは、カナの婚礼でした。この婚礼に、主イエスの母マリアやイエスの弟子たちも出席していました。婚礼の最中、客に出すぶどう酒が足りなくなりました。その時、イエスは家の召使たちに、瓶の中に水を一杯に入れるように指示ました。その水を、』婚礼の世話役に渡すと、水はぶどう酒に変えられました(ヨハネ福音書2章11節)。その後も、主はしるしを行います。病人を癒し、生まれつき目が見えなかった人の目を開く(9章)など様々な場面で神の栄光を表したのです。しかしユダヤ人たちは、しるしを見てもイエスがメシアとは信じなかったのです。

主イエスによって現れた神の栄光は、信じない人々の目には隠されていました。人々は、主イエスのことを自分たちと同じ普通の人間だと決めつけていたのです。「アブラハムが生まれる前から『わたしはある』」(ヨハネ福音書8章58)。主イエスがこう言われた時、人々は躓き、主イエスに石を投げようとしたのです。

そしてラザロの件が起こります。ラザロは、主イエスと親しかったマルタ、マリア姉妹の兄弟でした。彼が思い病気にかかったとイエスは知らせを受けました。その知らせを聞いて、主イエスは弟子たちと共にラザロのところにでかけました。ところが、まだ主イエスが着く前にラザロはなくなってしまいました。着いた時には墓に葬られて四日たっていました。そのラザロを、主イエスは墓のなかから、復活させたのです(ヨハネ福音書11章40節)。この事件によって、ユダヤ人たちはイエスを殺そうという考えを固めたのです。

イエスは、弟子の一人に裏切られて、その弟子の手引きで逮捕され、その翌朝には十字架にかけられました。

人々は、十字架にかかる主イエスを見て思いました。彼は、自分が神に遣わされた神の子だと言っていたが偽物だった。主イエスは、罪を犯し、人々を迷わせた。だから主イエスは神に見捨てられ、死刑になったと、思いこんでいました。だれも十字架に掛けられたイエスのことを、メシアだとは思ってもいませんでした。

しかし、十字架に掛かった姿が、主イエスが行ったしるしの中でも最も大切なものです。

御子イエスが十字架にかかったのは、わたしたちが罪を赦されるためです。主イエスは「世の罪を取り除く神の小羊」贖罪のいけにえとして、わたしたちの罪を償う為、十字架にかかっていたのです。それが御子の来られた目的です。 御子は、肉体をもち人となったのはそのためです。御子は罪を犯したことはありません。しかし、その他の点では全てわたし達と同じになりました。御子は地上でわたしたちと同じように試練と苦しみに遭ったのです。御子は人として試練に遭われたからこそ、この世で苦しむ人々を助けることがおできになるのです。神の栄光は、御子イエスの十字架によって示されました。「罪を取り除くために、御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断なさったのです」(ローマ8章3)。

「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。」古い契約がモーセを通して与えられました。新しい時代、神は主イエスの十字架の血によって、わたし達に新しい契約を与えられたのです、それは「恵みと真理に満ちた」契約です。わたし達が何か功績を残したから、神はわたし達をお選びになったのではありません。神は、一方的な恵みにより、わたし達を罪深いこの世から選び出し、救ってくださったのです。キリストの恵みによって選ばれた者達、それが新しい神の民イスラエルでありそれは教会のことです。

「わたしたちは皆、このかたの満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に更に恵みを受けた。」教会は、主イエスの恵みの新しい契約、神の恵みと慈しみをを分かち合う者達です。もし、わたしたちが主イエスの恵みに頼らず、自分の行いによって救われようとするなら、裁からます。律法の行いに頼る者は、律法によって裁かれるのです。

「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる神、この方が神を示されたのである。」御子を見た者は神を見たのです。わたしたちは礼拝の中で、十字架にかけられた御子の栄光を見ています。罪人のわたし達には、神の栄光を見ることはできません。今わたしたちは、御子イエスにおいて神の栄光を見ています。御子は、わたし達のいるこの世ただ中で幕屋を張りました。御子は十字架でわたしたちの罪の償いを成し遂げられました。今御子は天に挙げられ神の右におられます。御子が天に帰られたのは、わたしたちも御子がおられる天に居場所を持つためです。御子イエスは、わたしたちの居場所を用意されたなら、再びこの地上に戻って来られます。「神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる」(黙示録21章3)。主が再び来られる時、わたしたちは神の用意された新しい天と地、神の幕屋を見るでしょう。神の幕屋に住むようになるでしょう。その日までわたし達は主の恵みの中に歩みたいと思います。

主イエスキリストの父なるかみ様、あなたの聖い御心に感謝します。主の恵みによってのみ、わたし達は信仰の歩みを続けています。これからもあなたの備えた恵みと真理の道を歩ませてください。

(説教者:堀地敦子牧師)