主日礼拝説教

見よ、神の小羊

ゼカリヤ書12章10、ヨハネによる福音書1章29~34

見よ、神の小羊

ある日、自分の方にやって来られる主イエスを見て、こう言い放った人がいました。洗礼者ヨハネです。ヨハネは、キリストを指さして、こう言いました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」。

「世の罪を取り除く神の小羊」こそがわたしたちの救い主だ。そうヨハネは証しをしました。この証しは、旧約聖書にさかのぼります。

イスラエルが出エジプトをする前の夜、神は、エジプトにいるすべての初子を滅ぼそうとされました。しかし、イスラエルがエジプトの民と共に滅びるのを憐んだ神は、逃れる道を、イスラエルに知らせました。小羊をほふって、その血を家の門に塗りなさい。これを目印に、神は、イスラエルの人びとの家の前を通り過ぎる。羊の血のしるしがある家には、決して裁きを行わない。この約束を信じて、神様の言われたとおりにした人びとだけが、エジプトの奴隷の家から、神の手により救われました。

出エジプトからさらに時代をさかのぼると、信仰の父アブラハムのときにも、そうでした。ある日神は、アブラハムに一人息子のイサクをいけにえとして献げるよう命じます。やっとのことで与えられた一人息子の命を、神に献げねばならない。悩んだすえにアブラハムは、すべてを神にゆだねて、神様の言われたとおりにしようと決心します。山の上で、まさに独り子イサクの命を献げようとしたそのとき、神はアブラハムの信仰を見て、イサクをアブラハムの手に返します。その代わりに、神自らが、いけにえとなる小羊を用意して、アブラハムとイサクに与えました。こうしてアブラハムとイサクは、神への信仰のゆえに、義とされ救われました。

アブラハムのときも、出エジプトのときも、わたしたちの身代わりとなる小羊のいけにえを、神が用意してくださいました。のちに預言者イザヤが述べたとおりです。「わたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。…彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に、物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた」(イザヤ53章6~7)。「彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」(同5節)。ただし、このことについて預言者イザヤは、「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか」(1節)、とも語っています。

ヨハネは、神から遣わされた正真正銘の預言者でした。旧約聖書に示されたこれら預言の言葉をよく知っており、信じていたにちがいありません。そのヨハネにとっても、まさか自分たちの救い主が、「世の罪を取り除く神の小羊」として来られるとは、理解と想像をはるかに超えていたにちがいありません。なぜならヨハネは、二度も、こう述べているからです。「わたしはこの方を知らなかった」(31節、33節)。

「わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである」。キリストが、天地創造の前から、父と聖霊と共に、永遠を生きておられる方だと、ヨハネは知っていました。そのヨハネも、まさか神の独り子が、自分たちの身代わりとなり、十字架にかかるために来られる。すなわち、「世の罪を取り除く小羊」として来られるなど、思いもよらなかったのです。

自分たちが待ち望んだ救い主は、「世の罪を取り除く神の小羊」だった。この知らせ、そして信仰は、神からわたしたちに、もたらされました。「わたしは霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」。わたしをお遣わしになった方が、わたしに言われた。「霊が降って、とどまるのを見たら、その人こそ、聖霊によって洗礼を授ける人なのである」。

ヨハネは、聖霊がキリストお一人の上に降るのを見て、そう確信しました。聖霊による神ご自身の証し、これにまさるものはありません。大勢の、どれほどすぐれた人間の証しも、神の証しにはかないません。神のなさる証しを見たので、ヨハネは初めて、確信をもって、イエスこそキリスト、「世の罪を取り除く神の小羊」と証しすることができたのです。これまで、いくら自分で聖書を読み、求めてもわからなかったキリストのことが、神からの証しによって、はじめてわかるようになりました。聖霊のなさる証しに励まされ押し出されて、ヨハネはイエス・キリストを心から信じ、証しする者とされていきました。

キリストを別にすれば、信仰においても行いにおいても、ヨハネほどすぐれた人はまずいませんでした。ユダヤ教の指導者たちが、「あなたはメシアか、それとも預言者なのか」と思うほどでした。ところが、ヨハネその人を見ると、意外な位、控えめです。19節からの段落をみると、エルサレムの住民たちが、わざわざ祭司たちをヨハネのところに送って、尋ねています。「あなたはいったい何者ですか?」。そう問われても、「わたしはメシアではない」「預言者でもない」と答えるだけでした。とても口が重く、自分のことを聞かれても、否定的なことしか言わないのです。謙虚といえばそうでしょう。控えめで、奥ゆかしい人なのかもしれません。でもヨハネを頼って来る人たちにとっては、もどかしい。どこか態度がはっきりしない。自分というものに、自信が持てない人のようにすら思えてきます。

ヨハネこそ、キリストを世に証しするため、神が選んだ人です。神から遣わされた人です。でも、自分にはむりです。わたしにはそんな大役、務まりません。まるで、そう言っているように聞こえます。

ところがそのヨハネが、重い口を開き、突然、熱く語り出します。何がそうさせたのでしょう。それはイエス・キリストのことだからです。自分のことではあれほど口の重かったヨハネが、救い主キリストのことになると、打って変わったように、口を開きます。キリストを証しする言葉が、次から次に、ほとばしり出る。あとからあとから、まるで天から水が流れてきては、その水に押し流されるように、キリストを熱く語り証ししました。キリストを証しし続けることによって、ヨハネは変えられていきます。「彼は栄え、わたしは衰える」と、のちに自ら語った言葉のように。「わたしたちと世の罪を取り除くために来られた神の小羊」、救い主イエス・キリストのことだけは、語らずにはいられない。人びとに伝えずにはおれない。聖霊によるキリストの証しが、ヨハネをヨハネその人に、造り変えました。

ヨハネはまちがいなく、神によって選ばれた預言者です。でも、どれほどすぐれた人であっても、神の証しがなければ、キリストのことはわかりません。聖霊のうながしと導きなしには、キリストを証しすることもできません。ヨハネを神の器として選んだ神だけが、ヨハネにその使命を果たさせることができます。言い換えれば、ヨハネは、自らが指さし示したそのお方キリストによって、神に与えられた使命を、はじめて果たすことができたのです。あれから二千年のときを経たこのとき、神のなさる証しは、今も、聖霊の業として生きて働いています。神の御子キリストを、神自らが、今も世に証ししておられます。

キリストについての神の証し、これを信じ受け入れるなら、キリストを信じ告白するわたしたちの存在と歩みが、世にいる人びとに、キリストその方を証ししていくでしょう。

「見よ、神の小羊だ」。次の日も、ヨハネは、キリストを証ししつづけました。来る日も来る日も、主を証し続ける教会、それこそがわたしたちの目指す教会です。そのような信仰者をはぐくみ、そのような教会を生み出しているのは、実に、イエス・キリストそのお方なのです。

(説教者:堀地正弘牧師)