主日礼拝説教

神の啓示により

詩編119編9〜16節、ガラテヤの信徒への手紙1章11〜24節

神の啓示により

主イエス・キリストの御体なる教会は、救い主なる御子イエスの御降誕を思い起こし、主が公に現われたこと、殊に、洗礼を受けられて宣教の業を始められたことを思い起こして歩み続けます。そこで私達は、主によって捉えられ招かれて福音信仰に生かされるべく、主の御霊に力を受けて進みます。そして世界を超えて、まさに聖なる公同の教会として、主の平和を祈り続けていきます。

そこで今朝の教団聖書日課に掲げられた御言葉から、神の真実なる思いが、宣教の課題を多く抱えている私達に迫ってきます。思い起こせば、この書簡は昨年の9月に結びの箇所から御言葉が与えられて、使徒パウロの信仰にある熱意と宣教の使命を担った真剣な姿勢から、私達は主の十字架と復活の恵みを心深く受け止め直したものです。そこで今朝の所は、書簡の最初の部分です。ここから今一度、私達はそれぞれに信仰の原点に立ち返りつつ、御言葉に聴きたいと思います。

使徒パウロが以前から積極的に宣教活動を行ってきたガラテヤ地方において、憤りを感ずるほどの事態が発生しました。これまでガラテヤの教会の人々が熱心にキリストの教えを受け入れて、教会の働きに大きな力となっていたところ、早々に異変が起こったのです。その事態の発端は、使徒パウロの宣教旅行でガラテヤを訪問したしばらくの後に、他の巡回伝道者がやってきて異なる教えを広め始めたことにあります。そもそもローマ帝国の支配下にあった地域で、キリスト信仰者として歩み始めたガラテヤの教会の人々の多くはユダヤ人であったため、罪の赦しに対する思いや言葉、行いなどに惑わされやすい心境にありました。しかし、私達自身も他人事ではいられません。キリスト信仰に導かれた者は、単に過去の問題が解決されるばかりでなく、現在と未来に向けても福音の真理にある新たな命の道へと導かれていくことに確信を抱くものです。

そこで福音の真理を考えてみますが、端的には、イエス・キリストの死と復活にかかわる真理です。「福音」は元の言葉の意味からしますと、「良い知らせ、よきおとずれ」という意味です。この世の混乱や人間の罪は、神の御業によらなければ解かれることはなく、また人の思いや言葉、行いによって永遠の命に至るのでもありません。イエス・キリストの十字架と復活なしに、罪の赦しは成し得ないものです。まさに十字架なくして救い無し、救いなくして命なしです。また「福音」と訳されている言葉にはもう一つの意味があります。それは、王から民に与えられた「公式の宣言」という意味です。ここで思い起こすのが、羊飼いたちの所に天使が現われて伝えた言葉、「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」と告げたことです。聖書で伝える福音は神が伝えるものであり、聴くべきものです。聖書の御言葉と向き合うとき、それが神からの言葉であることを心して受け止めて聴くものです。しかしガラテヤの教会の人々は、福音の本質を忘れて、福音は人間の教えと受け止めてしまったのです。その根底には、「イエス・キリストを信じるだけでなく、割礼を受け、ユダヤの戒律も守らなければならない。」というものがありました。

しかし使徒パウロが指摘しているように、キリスト信仰者にとっては、十字架の他に誇るものがあってはならないものです。救いについて、解かり易い表現や目に見える形で伝えられたとしても、それが伝える側や聴く側の、それぞれ自分自身の誇りのためにあるならば、神抜きのものになってしまうと使徒パウロは指摘して、キリストの福音によらなければ救いはないと説くのです。福音宣教は、決して自分自身のためにあるものではないからです。何よりも福音は人から出たものではない、それならば、神の権威によって告げ知らされた福音に人の思いを優先に何かを付け加えたり、変えてしまったりすることが許されるはずもありません。しかしガラテヤでは、キリスト信仰に人間的な何かを付け加え、それを誇りたい人々が、キリストの福音を別のものに変えていました。それも自分自身が認められ、評価されるためでしたから、使徒パウロは黙っていられませんでした。そして11節以下で、福音は神からのものであることを強調しました。そしてそのことを証しするために、彼は自分の回心とその後のことを記しました。なぜならば、彼はキリスト信仰者になる以前には、熱心なファリサイ派のユダヤ教徒でした。それも彼の熱心さは、自他ともに認めるところでした。その彼が、教会の教えと異なるものを「人によるもの」にすぎないと断言します。それは、教会を混乱に陥れる教えや行いが、人間の体験や伝統また論理などから発生したものにすぎないことを誰よりも身近に感じていたからです。そこから使徒パウロは、福音を「イエス・キリストの啓示によって知らされた」と伝えます。「啓示」とは教会用語ですが、この世に隠されていたものが、聖霊の働きによって人々に明らかに開示されるということを意味し、そこから使徒パウロは、「覆いが取り除かれて神の御子を見えるようにされた」ということを伝えているのです。

教会が守り伝えて私達も信じている福音は、決して人間の体験や知識から出たものではないものです。もし人間の考えから出たならば、人が神になるということは理解できても、神が人となるとは決して理解どころか考えも及ばないものです。更には、人が神のために死ぬということは想像できても、神が人のために死ぬということは、常識を逸脱している戯言でしかなくなります。たとえそういう事実が明らかになったとしても、大多数の人々にとっては天地がひっくり返る思いです。それだからこそですが、教会が守り伝えている福音は、人の知識や知恵では受け止めてもらえないこともわかります。人間の法則には神の法則は当てはまらないということも重なります。また加えて、「イエス・キリストの啓示」のもう一つの意味は、イエス・キリストご自身が神の啓示であるということです。神は私達の存在を遥かに越えて、肉眼では見えないお方です。しかし神は様々に御自身を現わしてくださいました。今もなお続けておられます。天地万物をはじめ、マクロからミクロに至るまで、神のすべての思いを示されておられます。またこの世の歴史を通して、私達に御自身の計画を示しておられます。なかでも究極的な啓示は、神が人となってこの世に来られ、私達と共に生きてくださるということ。罪ある弱い私達と同じ人間となられた御子イエスを知ることによって救いの道を知らされ、父なる神を知ることが出来るという御業です。 

この出来事を聖霊の働きによって知らされた使徒パウロは、ダマスコ途上の復活の主イエスとの出会いによって、自力救済的な思いや行いから真逆の方向へと変えられました。それもただ神を頼り、神を誇る者へと変えられたのです。この180度の大転換が、パウロを使徒として、福音宣教者として造り変えた神の御業です。ここには、彼の努力や思いによるものは何ひとつありません。使徒パウロの福音伝達は、徹頭徹尾このダマスコ途上のキリストの出来事と深く結びついています。自分を造り変えてくださり、福音宣教者としての歩みのすべてを守り導いてくださっている主イエス。使徒パウロは、生きて働き給うキリストとの交わりの中に生きていたのです。だからこその強さが彼にはあります。彼は他の書簡で「キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。(Ⅱコリ12:10)」と、自分を誇るのではなく、キリストに生かされている故の神の御業を誇りとして記しています。私達の歩みの一歩一歩も生きたキリストとの交わりにあり、そこに導かれる信仰の力によって、今までも、また今ものちも神と共に生きるのです。

だからこそとも言えますが、使徒パウロがガラテヤの諸問題に黙っていられないことには、身をもって福音の真理を伝えてきたにも関わらず、その教えに対して否を突きつけるかのように、「信仰だけでは救われない、割礼を受けなければ、律法を守らなければ救われない」などと主張する人々がガラテヤの教会に来てパウロを批判し、教会の人々を惑わしたのです。彼らは、「自分達はエルサレムから来た者で、エルサレムの使徒達によって遣わされて来た。だからこそパウロよりも権威があり、純粋で正しい者だ。一方のパウロは、使徒としての権威は我々よりも劣り、使徒としてふさわしくない者だ。」ということを根拠にしていたのです。彼らの権威の拠り所はエルサレムでした。一方の使徒パウロが語ったのは「私は生ける唯一の神によって、イエス・キリストによって使命を与えられて、使徒として今がある。」ということだったのです。問題は、人の権威や評判にか、神の権威や真理にかです。使徒パウロの主張は、聖書の中核にあるものです。なぜならば、教会にとっての権威は、かしらなるキリスト以外にはあってはならないものですし、それを証しする「使徒的福音」が信じられ守られ広められることによって、信仰共同体としての働き、キリストの御体なる教会は堅実堅固なものとして成長してゆくのです。反対に、神の権威が薄れたり失われたりすれば、信仰共同体の成立と形成に甚大な損傷をもたらすこととなり、その共同体は確実に崩壊し、滅びに至ります。それは、神よりも人やこの世の評判や価値を第一としていることで起こります。

そこで13節以下の出来事ですが、ここは先にも触れましたが、ダマスコ途上での出来事です。使徒言行録の9章を見れば事情がわかる所ですが、その時の彼の思いは、「先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心」でした。彼はユダヤ教当局者から与えられた権威によってキリスト者を迫害していたのです。そうだからこそ、ガラテヤの教会の人々を惑わしている者達に対して、主イエスと出会う前の自分と同じに感じたことでしょう。今までの生き方そのものが神によって変えられてしまった使徒パウロから見れば、今なお「罪ある者が救われるためには割礼が必要だ、エルサレムやエルサレムの使徒達にこそ権威がある」としている人々は、人を頼りとし自分を根拠とする以前の自分と重なるのでしょう。しかし今の自分は違う。人の権威や力、評判などを頼りに生きるのではなく、ただ生ける神の召しに従って生きる者へと変えられた使徒パウロです。そしてイエス・キリストの十字架と復活の真理の意味を知らされた者として、ただ信仰によってのみ救われるという福音を与えられ、主イエスから宣べ伝えるようにと命じられた福音を告げ知らせる者となった、いやそういう者へと変えられたのです。そこで今まで慣れ親しんできた旧約聖書の預言者達の言葉は、全く新しい響きをもって聞こえたことでしょう。言い換えるならば、この時になって旧約聖書に記されている神の救いの御心が、はっきりと判ったということになります。それは単なる文字ではなく、生ける神からの言葉として響いてきたということです。もう一度確認しますが、このように導かれたのは、使徒パウロが誰よりも熱心で、真面目で立派な人だったからではありません。それはむしろ、キリストを迫害するために使われた熱心さでした。主イエスから見れば、イスカリオテのユダ以上に執拗なまでに徹底した敵対心むき出しの厄介者でしかなかったでしょう。にもかかわらずです、主イエスの方から彼に出会い、救いに与らせ、キリストの福音を宣べ伝える者とされたのです。それは、一方的な神の恵みによる選びとしか表現できない出来事でした。それを使徒パウロは、「わたしを母の胎内にあるときから選び分け」と記したのです。この言葉の裏には、預言者の第二イザヤ(49:1-6)やエレミヤ(1:5)の召命の言葉が響きます。それぞれに受け止めは異なるのでしょうけれども、共通していることには、神の一方的な恵みの選びこそが、イザヤやエレミヤを預言者として、また使徒パウロをキリストの福音宣教者として有らしめているということです。これは何も聖書の中だけにある話ではなく、ここにおられるおひとりおひとりが、それぞれの持ち場立場で、今そのようになっているということです。これからもさらに変えられてゆく可能性があるとも言えます。現在の姿で完成しているとは言い切れないということです。それこそですが、私や皆さんが神を選んだのではなく、神が私や皆さんを選んで、主イエスの救いに与らせてくださったということを御言葉からも思い起こし、それも自分の知恵や力、権威や人間性などを良しとして振りかざすのではなくのことです。神はそれぞれに時を見計らい、一人一人を一方的に選び出し、出会ってくださり、「我が子よ」と呼びかけてくださった。その招きの中にあって、私達は神に向かって「父よ」と呼びかけることをゆるされ祈る者とされたのです。これこそが救いであり、キリストの福音です。この福音がはっきりと私達に示されたのが、主イエスの十字架です。キリストの福音を宣べ伝える宣教者としての使徒パウロの姿、以前には誰よりも反対の力を振るう迫害者サウロが、突如の出来事を通してキリストに出会われて、キリストを宣べ伝える宣教者に変えられたという事実。そこにある神の圧倒的な救いの恵み、御業の偉大さを知らされたガラテヤの教会の人々は、彼が、誰それがではなく、使徒パウロの生き方そのものを変えられた神を褒め称えたのです。

そこで使徒パウロはエルサレムに上り、ペトロのところに15日間滞在しました。その他には主イエスの弟であるヤコブ以外には会っていませんけれども、その時、使徒パウロはエルサレムの使徒から福音を伝えられたのでもなく、さらには彼らによって使徒に任命されて、宣教活動に遣わされたのでもないのです。使徒パウロには、エルサレムの使徒達と共にキリストに仕えている確信がありました。それぞれに出会ったキリストは、同じ方であることは疑いようのないことだったからです。同じキリストが、別のことを教えるはずがないからです。使徒パウロのこれまでの経験は、他の弟子達がイエスの姿を直接見たとか、復活のイエスと一緒に食事をしたというような体験ではありませんでした。しかし使徒パウロは、信仰によってイエスをキリストとして深く知ったのです。

私達もイエスの御姿を直接見ることはなくても、使徒パウロと同じように、聖霊の働きにあって、信仰によりイエス・キリストを心の内に示されました。神の啓示、私達の心の内に示されるイエス・キリストは、信仰によって受け取るもの、いやそれでしか受け取ることができないものです。その最たる体感が聖餐の恵みに与る時です。信仰を与えられたが故の恵みによって、心の内に示されたイエス・キリストと共に、信仰によって、より具体的に交わることが与えられているのです。それも、十字架と復活の出来事により与えられ、赦されているのです。また代々の聖徒と共に信仰告白をなしてゆく中で、神の恵みを心に深く覚え、日々の生活の中でその恵みをさらに深く知ることともなります。これからのちも、神からの啓示によって指し示された福音の真理を堅く保ちながら、キリストの御体なる教会に連なる者として、いついかなる時も忍耐強く祈り続け、日々の恵みに喜びと感謝をもって主の道を歩んでまいりたいと願います。

(説教者:協力牧師 鮎川 健一)