主日礼拝説教

喜び、祈り、感謝

詩編43編3~5、テサロニケの信徒への手紙一5章16~20

喜び、祈り、感謝

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて神が…望んでおられることです」(5章16~18)。「喜び、祈り、感謝―聖霊によって生きる」。本年度、神様が、わたしたちを導く御言葉、そして目標をこのように与えてくださいました。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」。とてもよく知られた聖書の言葉です。これを愛唱聖句にしている信徒の方も少なくないでしょう。とても良い言葉です。

ただ、ふりかえってみますと、はたして自分は、どれほど、この御言葉通りに生きてきただろうか? わたしたちの信仰のありようを問いかける御言葉でもあります。

御言葉はこう語っています。「いつも」喜び、「絶えず」祈り、「どんなことにも」感謝しなさい。「どんなときにも」、そうくりかえされているからです。

うれしいことがあれば、だれでも喜びます。神に感謝し祈りもします。物事がうまくいっているときには、喜び、祈り、感謝することは、むずかしくありません。でも反対に、うまくいかないとき、つらいとき、悲しいことが次から次に襲ってくる。そのようなときに、わたしたちは喜べるでしょうか? それでも祈っているでしょうか。感謝をささげていますか? そう聞かれると、答えに詰まります。「いつも」喜び、「絶えず」祈り、感謝することのできていない自分を認めないわけにはいきません。いったいどうしたら、この言葉どおりに、いつも喜び、祈り、感謝をささげて生きることができるのだろうか? そう思います。

いったい、どうしたら? そのヒントが、この言葉に込められています。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」。これこそ、「キリスト・イエスにおいて神が(わたしたちに)望んでおられることです」。後半の「神が…望んで…」のところは、直訳するとこうなります。「このことは神の御心です」。わたしたちが、どんなときにも、「喜び、祈り、感謝」するのは、神の御心にかなっています。それが「神の意志」、神の願いなのです。

どんなときにも、喜び、祈り、感謝することができたら、どんなによいでしょう。でも、なかなかそのようにはできません。そういうわたしたちだということを、神様はよくご存じです。よく知っておられる。だからこそ、神はおっしゃるのです。「神の御心」に従って、神の御心を信じて、どのようなときにも「喜び」、祈り、感謝をささげる者になりなさい。喜び、祈り、感謝へと招く神の声が、今、わたしたちに注がれています。

少し見方を変えてみましょう。「喜び」も「祈り」も「感謝」も、どれも自分独りでは出てこない。そういうものではないでしょうか。もちろん、独りで祈ることがあります。自分一人で、あることを喜び、感謝することもあるでしょう。でも「喜び」や「祈り」、「感謝」は、独りでいては生まれてきません。必ず相手が必要です。わたしたちに喜びを与えてくれる存在がなければ、喜びは生まれてきません。祈りも感謝も、自分一人でするものではない。神に向かってささげるものです。「ありがとう」と伝えたい相手がいるからこそ、感謝は成り立ちます。誰に向かって祈っているのか、わからなくなってしまったら、その祈りはただの独りごとになってしまうでしょう。「喜び、祈り、感謝」。どれも自分独りで味わうものではなく、誰かと共に味わい、神様にささげるものです。キリスト・イエスに、喜びをもって祈りをささげ、キリストを通して神に感謝をささげる。「喜び、いのり、感謝」に生きようとすれば、それはすなわち、「神と共に生きる」、「キリストによって歩む」、「聖霊に導かれて過ごす」ことにほかなりません。

「喜びがない」、礼拝をささげても、説教を聞いても「信仰の喜びがわいてこない」。もしわたしたちの信仰がそうなってしまっているとしたら、それは神をどこかに置き忘れているのかもしれません。自分独りだけで一生懸命になっている、からかもしれません。信仰者もまた、自分という殻に、いつの間にか閉じこもってしまうことがあります。信仰の孤独に陥るのです。けれども主なる神は、そのような孤独から、わたしたちを導き出そうとします。喜びのない、祈れない、感謝できない殺伐とした人生から、神が、わたしたちを救い出します。父・子・聖霊なる神との交わりに、生きなさい。そのために神は、独り子キリストをお遣わしになったのです。

「喜び、祈り、感謝」しなさい。聖書が言う「喜び」は、この世が与える喜びとはちがいます。「喜び」と一口に言っても、たとえば「人の幸せを喜ぶ」のでなく、「人の不幸を喜ぶ」とか。「罪や不正を働く喜び」だって、世の中にはあります。でも、神がわたしたちに望んでおられるのは、そのような喜びではありません。聖なる喜び、祈り、聖なる感謝です。

新約聖書の中で、「喜び」という言葉が初めて出てくるのはどこだと思いますか? マタイによる福音書2章10節です。遠い東の国から博士たちが、星に導かれて、やって来ます。生まれたばかりのキリストのもとにやってきます。星が「ついに幼子キリストのいる場所の上に留まる」と、それを見て、博士たちは「喜びにあふれ」ました。まだキリストに会ってはいないのに、自分たちのすぐそばに救い主がいてくださる。待ち望んだキリストに、もうすぐお会いできる。そのことで博士たちは、聖なる喜びにあふれました。まだ手にしていないけれど、すぐ目の前にある喜びを味わったのです。それで喜びながら、感謝のささげ物を、幼子キリストにささげます。

同じマタイの福音書で次に「喜び」が出てくるのが、山上の説教です。「心の貧しい人々は幸いである」(5章3)。そうお語りになったあと、この段落の締めくくりに、主キリストはこうおっしゃいました。「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい、大いに喜びなさい。天には大きな報いがある」(11~12節)。

もうすぐ救い主に出会える。そういう喜びがあるかと思えば、キリストのゆえに苦しみを受け迫害される。そういう喜びもある。聖書はそう語っています。

つまり、神がわたしたちに与える喜びは、わたしたちにとって「うれしい」ことばかりとは限らない。辛いこと、苦しいこと、悲しいこと、そうしたことの中にも、喜びが与えられている。大きな喜びがある。そうおっしゃるのです。

言いかえれば、こういうことでしょう。うれしいことか、それとも悲しいことか。目の前の事柄によって「喜び」は決まらない。うれしいときも、つらいときにも、悲しいときにも、キリストが共にいてくださるなら、そこには必ず「喜び」がある。そう神は断言されるのです。

つらいことは、だれだっていやです。悲しいことはもうたくさんだ。だれもがそう思います。辛いこと・悲しいことがなくなりますように、そう神に祈ります。

けれども、わたしたちの救い主イエス・キリストを見てください。この御方は、罪のないのに、わたしたちを救うために、罪人たちから裁きを受けました。十字架にかかる前の夜、必死に祈られました。「できることならこの苦しみを取り除けてください」。しかし、「わたしの願いではなく、神様あなたの御心の通りにしてください」。そう祈って、十字架で身をささげていかれた。このキリストこそ、私たちの喜びであり、祈りであり、感謝の源です。

どのようなときにも「喜び」、苦しい中でも絶えず「祈り」、どんなことにも「神に感謝」していかれたお方。それがわたしたちの救い主イエス・キリストです。

わたしたちにはできない。キリストのように、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝するなんて、私にはできません。そう言いたくなります。しかし、そういう自分を抱えつつ、主の赦しを請い求めつつ。それでもなお、心を奮い立たせて聖なる喜び、聖なる感謝にわたしたちを誘う、神の御心を信じ従っていく。そうなれるよう、今もこれからも共にいて、わたしたちを助け、励まし、導いてくださる聖霊を信じて、この御言葉に生きていきたいのです。

確かなことがひとつあります。たとえわたしたちにとってどれほどむずかしいとしても。キリストこそ、「喜びの人」「祈りの人」「神への感謝」に生きたお方です。聖なる喜び、心からの祈り、聖なる感謝に、キリストはまちがいなく生きておられました。キリストにはそれがおできになりました。しかも、キリストの喜びは、誰のための喜びだったでしょう。わたしたちのために十字架にかかることでした。キリストの祈りは、誰のためにささげられたのでしょう。「あなたがたの罪を、天の父がお赦しくださるように」との十字架の祈りでした。キリストが神にささげた感謝も、わたしたちのことでした。「天の父よ、あなたをほめたたえます。これら(救いの恵み)を、知恵ある者・賢い者にはかくして、幼子のような者にお示しになりました。父よ、これは御心にかなっています」(マタイ11章25~26)。そうおっしゃって、わたしたちがイエス・キリストに出会い、キリストを信じて救われたこと。神の国を受け継ぐ者とされたことを、キリストはだれよりも喜び、神に感謝されたのです。

自分ひとりでは、決して喜べません。たとえこの世でうれしいことがあっても、主が共にいてくださらなければ、なんの喜びがあるでしょう? わたし自分独りでは祈れません。感謝もできません。どれほど楽しことにあふれ、人がうらやむ人生でも、もし主が共にいてくださならければ、そこに永遠の喜びはありません。

しかし、キリストその方を思うとき、不思議に喜びがわいてきます。苦しいなか、悲しみのなかでも、キリストを思うと、悲しみが喜びに変えられるのです。こうして、キリストが共にいてくださるので、聖霊にうながされて、天の父よと、キリストと一緒に、祈りをささげることができます。キリストがこのわたしの罪のために、喜んで命をささげてくださいました。そのことを思うと、喜びと感謝が止まりません。神をほめたたえずにはおれません

この喜び、この祈り、このような感謝によって、教会は生み出されました。教会は、他の何ものでもない。キリストをわが喜びとします。キリストの名によってこれからも祈りつづけます。キリストゆえに神に感謝をささげて歩み続けます。このように、聖霊によって、主が再び来られる日を目指します。これこそ、神がわたしたちに望んでおられることであり、神の御心です。

(説教者:堀地正弘牧師)