主日礼拝説教

厳粛な誓い

レビ記27章26~34節、コリントの信徒への手紙二1章17~22節

厳粛な誓い

2節の直訳「もし人がその人の代価に当たる額をもって、主に誓願するときには、その金額は、二十歳から六十歳までの男子なら聖所のシェケル銀貨で50シェケル、…」。これは、この代価によって、民が主に誓願を立てることができるという主旨です。レビ記27章のテーマは、誓いです。わたしたちの信仰は、神がわたしたちに与えた契約によって成り立っています。神がアブラハムに誓いを立ててその誓いによって、イスラエルの父祖となったのです。このイスラエルを神は約束の地に導きました。神とわたしたちの絆は、今も誓いによって成り立っています。

2-8節:聖所のシェケル

この金額は、当時のメソポタミアの奴隷の金額から来たのではないかといわれています。50シェケルは、二十才から六十才までの壮年の男性の値段としては正当な価格でした(3節:列王記下15章20節参照)。女性や子ども六十才超えた人たちは、一般の労働市場でも彼らの労賃は低く抑えられていました。そのため彼らの収入も少なかった、と思われる為です。決して、女性や子ども高齢者たちの誓いそのものに低い評価をしたものではありません。8節「彼らが貧しくて相当額が支払えない場合は…彼らの資力に応じて祭司が定める」祭司が定めた額、貧しい人にも主に誓願ができる様にすることが主な目的でした。

次に神への誓いの基本は、何かを見ていきたいと思います。「もし主がわたしをエルサレムに連れ戻してくださるなら主に仕える、と誓いました」(サムエル下15章8節)。神への誓いその基本は、神に自分を献げるというものです。ここには、人は誓いによって主の奴隷(しもべ)になるのです。この場合は、社会的な奴隷のことを言っているのではありません。「あなたがたは、罪に仕える奴隷となって死にいたるか、神に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです」(ローマ6章16)。神に仕えることが救いへの道なのです。

9-10節:「もし人が主への献げものとして家畜を携える場合、主にささげるものはすべて、聖なるものとなる」。いけにえの動物を持って誓いを立てる場合です。いけにえの動物を献げることは、旧約聖書の時代の礼拝の中で最も核心となることでした。それが主への誓いを立てる為ならばなおさら厳粛なものです。聖なるものとなった動物は、必ず主にささげられます。 10節「主にささげるものは、すべて聖なる物となる。それを他のものと替えたり、良いものを悪いものに、悪いものを良いものに替えてはならない。…それも替えたものも聖なるものとなる」。人がこれを主にささげることを約束して聖別されたものを人は、自分の都合で他のものと替えることはできないのです。

人は一度は神にささげた手放した物を惜しむことがあります。例えば、苦しい時の神頼みをして、問題解決をした後に…。「もし神さまが今わたしを助けてくださったら、どんなことでもします」わたしたちは、このような誓いを神にたてることもあります。しかし、問題が解決してしまうとどうなるでしょう。神に誓いを立てて、約束したことなど忘れてる。そういうことは、よくあるのではないでしょうか。

よく考えないで神さまに誓いをたて、そのことで後悔する人もあります。イスラエルの士師エフタもそんな人の一人のです(士師記11章:ヘブライ人への手紙11章32:彼は立派な信仰者であり度々イスラエルを外敵の侵略から救いました)。彼がイスラエルの強敵アンモン人と戦いに出る時に、主にこういう誓いを立てました。誓いを立てて真剣に使命を果たすつもりだったのでしょう。「もしこの戦いに勝って、無事に帰ることができたなら、わたしを戸口に迎えたものを焼き尽くす献げものにします」と。彼は誰が自分を迎えに出てくるのか考えなかったのでしょうか。かわいがっている家畜が自分を迎えに出てくるとでも思ったでしょうか。ところが彼を迎えに出てきたのは、一人娘でした。彼には他に息子も娘もいませんでした。彼は、自分が軽率な誓いをたてたことを後悔しましたが、取り消すことが出来ず、娘を失います。これは、主に誓ったことは取り消せない、わたしたちへの厳しい警告です。主イエスも言われています。「然り、然り、否は否といいなさい。」

自分の家や畑を主に献げられて誓願することもできます。買い戻したいときには、評価額に5分の1を加えて支払う。そうすれば元の持ち主の手に帰ってきます。

16~24:先祖伝来の畑をささげる場合は、畑に蒔かれる毎年まかれる大麦の種の量によって評価されます。1ホメル(200~400ℓ)の種が蒔かれる土地は、銀50シェケルです。これは、50年毎のヨベルの年までの最長の期間を見積もった額です。ヨベルの年までが1年ならば1ホメルの畑は、1シェケル、ヨベルの年まで40年あれば40シェケルです。

主に奉納された土地を元の持ち主が勝手に転売することは禁止されています。もし転売したら、次のヨベルの年が来たらそれは主のものとなります。元の持ち主は永久にその土地を失います。ヨベルの年は本来負債が免除され借金の形にとられた者が返してもらえる時です。ところが主にささげた土地を転売したらヨベルの年が、大切な先祖伝来の財産を失う時になってしまうのです。誓いを破ることは、それほど重大なことなのです。

30~33節:これは畑の収穫、家畜の中の十分の一これを主に献げること。十分の一献金の根拠です。その始まりはヤコブです。ヤコブは、兄をだまして長男の権利や祝福を奪ったので兄に恨まれていました。それでヤコブは夜逃げ同然に故郷を離れ、見知らぬ地ハランに向かいました。その途上ベテルで主がヤコブに現れてこう約束しました。「わたしはどこに行ってもあなたと共にいる」と。その時のヤコブが「あなたがわたしに与えられるものの十分の一を献げます」(創世記28章22)。この誓いが十分の一献金のはじまりと言われます。

わたしたちは、困ったときに神に祈り、誓いを立てます。問題が解決されたとき人は神に誓ったことも忘れます。誓いが重要だと分かっているのに守れません。自分が主の一番弟子だと自負していたペトロもそうでした。彼は主イエスが逮捕された時に主の後を追って祭司長の庭まで来ていました。そこである女性に見とがめられます。「あなたもナザレのイエスと一緒にいた」。そのときペトロは言います。「そんな人は知らない」と。彼は誓い立てて主イエスと事自分との関係を否定したのです。ペトロのあり方は決してわたしたちにも、他人ごとではありません。順調な時には、わたしはクリスチャンだと堂々と言うかもしれませんが。いざというとき、わたしたちは神さまを否定するような誓いをしてしまう。信仰者を自負していながら裏切ってしまう。それが、わたし達なのです。

しかしキリストは、決してわたしたちを裏切りません。わたしたちが、誠実でなくても主は誠実であられたのです。キリストが血を流して立てた契約がわたしたちの救いです。主がわたしたちを呼び出したのは、罪の奴隷だったわたしたちを、清めて聖なる者とするためです。その為にわたしたち自身も、家族も、わたしに属する者たちが神に贖われ救われる為に選ばれたのです。

ある人の誓いについてお話しします、その人は当時三十代でキリスト教学校に勤めていました。ただその人は、当時まだ教会に一度も行ったことはありません。幼い娘さんを抱えていました。その人が、合宿の引率で出張している時に突然の病で倒れ、命の危機になりました。その時、その人は二つの祈りをしました。一つ目は「もし、今わたしの命を助けてくださったら、教会に行き、一生神さまに仕えます」と祈りました。二つ目は「幼い娘を置いていけません。助けて下さい」という祈りです。一番目の神さまへの誓いの祈りがいつも先に出てきて、家族の為の祈りが先に出てくることはなかった。なぜそうなったのか自分でも分からないと言いました。その後、その人は洗礼を受け、家族も救われていきました。その人がなぜ誓いを実行できたのか本人にも、分かりません。すべては、主の恵みによるものです。わたしたちもそれぞれ主から恵みを受けています。「ともし火をともして升の下に灯りを置くものはいない。…あなたがたの光を人々の前に輝かせなさい。人々があなたがたの行いを見て、天の父をあがめるようになるために」主から受けた恵みを感謝し、神に栄光をお返ししましょう。

(説教者:堀地敦子牧師)