主日礼拝説教

恵みと平和

民数記6章22~27、テサロニケの信徒への手紙一1章1~3

恵みと平和

「教会らしい」と言われることがあります。「教会らしさ」とは何でしょう? どういうことをいうのでしょう? 今年度の目標は「喜び、祈り、感謝~聖霊によって生きる」です。どれも教会らしさをあらわす言葉にちがいありません。

新約聖書の手紙をみますと、教会ははじめから、喜び、祈り、感謝に生きる群れとして、キリストによって呼び集められました。これらを神に祈り願い、心から追い求めるなかで、教会は真に教会となっていくのです。

テサロニケの信徒への手紙一は、このように始められています。「パウロ、シルワノ、テモテから、父である神と主イエス・キリストとに結ばれているテサロニケの教会へ。恵みと平和があなたがたにあるように」(1節)。

テサロニケとは、ローマ帝国マケドニア州の首都で、大きな港町です。商業で栄えていました。ここに第二回伝道旅行の際、パウロが立ち寄って、まもなく教会が建てられました。けれどもパウロは、自分がこの教会を建てた、とはおそらく思っていなかったはずです。というのも、シルワノ(シラス)、テモテといった伝道者と共同して、この町で伝道を繰り広げていたからです。パウロたちにとって、教会の真の創設者は、自分たちではなく、イエス・キリストでした。そのことが、最初の言葉によく表れています。

「パウロ、シルワノ、テモテから、父である神と主イエス・キリストとに結ばれているテサロニケの教会へ」(1節)。

教会は、わたしたちが自分たちで集まって、作ったものではありません。父である神が、イエス・キリストの名のもとに、わたしたちを選び、集め、建ててくださったのが教会です。それゆえ教会の主(あるじ)はパウロでもシルワノでもテモテでもありません。有力な信徒たちでもありません。神の御子イエス・キリストです。キリストだけが教会の頭、わたしたちを神のもとに集め、信仰を与え、救ってくださいました。このことを手紙の最初で、パウロたちは、はっきりさせています。

「恵みと平和があなたがたにあるように」。恵みも平和も、神から来ます。イエス・キリストを通して、神の恵み、神の平和がわたしたちといつまでも共にあるように。教会を教会たらしめているのは、神の恵みと神の平和です。父なる神は、その独り子を与えるほどに、わたしたちとこの世界を愛してくださいました。御子を惜しまず十字架にささげて、御子の命と引き換えにして、神はわたしたち罪人を、神の子どもとして受け入れてくださいました。惜しみない神の愛に、わたしたちは皆、捕らえられたのです。キリストにおいてあらわされた神の恵みが、わたしたちを罪から解放し自由を取り戻してくださいました。キリストによって罪赦されたわたしたちは、この方の名によって、父なる神よと祈り、神の子たちよと呼びかけられる。神とわたしたちとの平和が、キリストの恵みによって打ち立てられました。ここに教会は立っています。これからも教会は、神の恵みと平和の上に立ち続けます。

実は、この手紙は、パウロが書いた手紙の中でも、もっとも古い手紙だといわれています。さらにいえば、新約聖書の中で、テサロニケの手紙一が、おそらくもっとも早い時期にかかれた文書として知られています。もちろん、イエス・キリストのご生涯を記した福音書があります。しかし福音書は扱っている中身こそキリストその方ですが、文書として書かれたのは、パウロの手紙より、もっと後のことだといいます。つまり、この手紙から、わたしたちは、地上で産声をあげて間もない、初代教会の生きた姿を知ることができます。最初の教会の、いわゆる「教会らしさ」と、信仰の息吹きが伝わってくるのです。

パウロは、手紙の形式で、イエス・キリストの福音を告げ知らせようとしました。とはいえ手紙は手紙です。礼儀からも形式からも、相手へのあいさつがまず記されるのは当然です。ただし、家族や友達・得意先に送ったふつうの手紙とはちがいます。テサロニケの町に建てられたキリストの教会、そこへ神によって集められた信仰者の群れに宛てた手紙です。当時の一般の手紙と比べますと、際立っている点があります。一般の手紙なら、相手へのあいさつ、賛辞、あるいはお世辞などがたくさん記されます。ところがこの手紙には、そういうものはみられません。その代わりに、父なる神そしてイエス・キリストへの賛美と感謝が高らかに歌い上げられています。まさに「教会ならでは」、「教会らしさ」にあふれる手紙です。

この手紙は、2節から本題に入ります。本題に入って、何よりもまず記されているのが、感謝、神への感謝であります。2節を原文に即して、訳してみます。「感謝します、神に。あらゆる時に、みなさんのことを思い起こして、わたしたちは祈る時に、絶えず、(神に感謝しています)」。

まず初めに出てくるのが、「感謝」です。感謝を、祈る度にいつも、神にささげています。同じパウロが書いたフィリピの信徒の手紙にも、こうあります。 「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いを(神に)ささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」(フィリピ4章6~7)。

驚くべきことにパウロは、「テサロニケの教会の人びと」のことで、神に感謝をささげています。教会の人びとの何を見て、神に感謝しているのでしょう? 続く3節で、このことが述べられています。

「あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、…キリストに対する希望をもって忍耐している」ことを、心に留めて、常に神に感謝をささげています。」 テサロニケ教会の人びとは皆、「信仰」「愛」「希望」にあふれている。「あなたがたの」信仰、愛、そして希望。そのことを神に感謝しているのです。

「信仰」「愛」「希望」この三つは、新約聖書の他の手紙にもよく出てきます。有名なのは、「それゆえ、信仰と希望と愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは愛である」(コリント一13章13)。

テサロニケの人びとは、「ひどい苦しみの中でも、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ」、信仰と希望と愛に生きようとしています(6節)。それゆえ主の言葉が、彼らの信仰と共に、その地域さらには至るところで伝えられていきました(8節)。厳しくつらいときにこそ、キリストに赦され神に愛されている恵みを感謝し、キリストの愛に互いに生きる。信仰と愛に根差して、ねばり強く生きようとする教会の姿。そこには、世の終わりに再び来られるイエス・キリストを待ち望む希望がありました。今の世がどれほど悩みに満ちていたとしても、世の終わりは必ず来ます。試練と圧迫、迫害がわたしたちを支配し続けることはありません。キリストが再び来られて、新しい天と地をもたらしてくださいます。永遠の喜びに、すでにわたしたちは生き始めています。神の御前で祈る度に、再び来られる主に望みを抱き、慰められ励まされて、教会は歩みを続けます。主が、わたしたちをとらえて離さないからです。

テサロニケの教会と信徒たちの力強さ、その秘密が、救い主イエス・キリストその方にあることを、パウロたちは知っていました。信仰も希望も愛も、わたしたちの中からは決して出てきません。信仰・希望・愛は、父なる神が、恵みにより無償で、惜しみなくわたしたちに与えてくださっています。それもイエス・キリストを通して。だから、信仰も希望も愛も、決して尽きることはありません。

たとえわたしたちが、信仰・希望・愛に飢え渇き、ふらつくことがあっても、これらを絶えず神に祈り求めるなら、天の父は、これらのものでわたしたちを満たしてくださるにちがいありません。この確信、神への信頼へと、聖霊がわたしたちを励まし動かします。どんなことがあっても、わたしたちは決して失望しません。ローマの信徒への手紙5章で、パウロが述べているとおりです。

「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む…希望はわたしたちを欺くことがありません」(ローマ5章3~5)。

教会らしさを追い求めるのなら、天からの賜物を切に願うべきです。み言葉が示すとおり、どんなときにも、あらゆることに感謝をささげ、たゆまず祈るわたしたちでありたい。そうありつづけたいと願います。そのために、神を信じる者とされたこと、神の愛に生き生かされ、主キリストの望みに生きつづけられることを、神に感謝いたしましょう。

主イエス・キリストの恵みは、わたしたちを裏切ることがありません。

(説教者:堀地正弘牧師)