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罪のための犠牲

レビ記16章15~22節、ヘブライ人への手紙10章19~25節
主日礼拝説教

罪のための犠牲

レビ記16章には、イスラエルの大贖罪日について記されています。

「アロンの二人の息子が主の御前に近づいて死を招いた事件の直後、主はモーセに仰せになった」(レビ記16章1節)。神さまが大贖罪日について告げたのは、アロンの二人の息子が死んだ直後のことでした。大祭司アロンの息子が罪を犯して神に撃たれ命を落とした。このことは、全イスラエルにとっても大変な痛みと衝撃でした。そのような時だからこそ、全イスラエルが罪の赦しを神に求めることが必要だったのです。

主はモーセにこう言われました。2節:「あなたの兄アロンに告げなさい。決められた時以外に、垂れ幕の奥の聖所に入り、契約の箱の上にある贖いの座に近づいて、死を招かないように。わたしは贖いの座の上に、雲のうちに現れるからである」。聖所の奥に至聖所があり、そこに贖いの座がありました。贖いの座の上に、契約の箱がおかれていました。人間が聖なる神を直接見たら死を招きます。ですから大祭司以外は、誰であろうと至聖所に入ってはならない。但し大祭司アロンも、決められた時以外は至聖所には入れない。大贖罪日の時以外は、大祭司であっても他の人々と同様に至聖所に入ることは許されないと主は言われました。これは、後の時代の大祭司についても同様です。

3-5:「アロンが至聖所に入るときは次のようにしなさい。まず贖罪の献げ物として若い雄牛一頭、焼き尽くす献げ物として雄羊一匹を用意する。」(3節)。大祭司も罪人ですから、自らのために罪の償いの献げ物をしなくては、至聖所に入ることは決して許されません。先ず、いけにえの動物の血によって、自ら罪と、他の祭司達や祭司の一族たちの罪の償いの儀式を行います。そのため贖罪の献げものとして若い雄牛が、焼き尽くす献げものとして雄羊が大祭司と祭司達や祭司の家族のためにささげられました。

贖罪の儀式の時、大祭司が身につけていた祭儀用の服は普段よりも質素でした。普段の祭司達が着ていた祭服は、豪華なものでした。四色の織り糸や刺繍や飾り帯には宝石(ラピスラズリなど)が着いた豪華なものでした。(出エジプト28章、同39章27~29節に祭司の祭服がどのようなものか書かれています。)。ただしこの大贖罪の日には、祭司は飾りの多い祭服は着用しません。上着も、ズボン、飾り帯、ターバンにも、一切飾りはなく、すべて亜麻布で出来たとても質素なものでした。普段の祭服が王の衣装だとしたら、贖罪日の大祭司は奴隷か、葬儀の為に荒れ布をまとう人のように見えました。ここには、大祭司が民を代表して、主の前に身を低くして謙遜になる意味があったのです。

6、11-14:先ずアロンが、自分自身と一族の贖いの為に、若い雄牛一頭を献げます。その雄牛の血を持って聖所に入っていきます。もう一つ、至聖所に入るために、主の祭壇から炭火をとって香炉を満たし、…香を火にくべ煙で一杯にする。ついで、雄牛の血を贖いの座の東に振りかけ、更に指で贖いの座の前方に7回振りまきます。ここまでが、祭司たちとその一族の為の贖いの儀式です。

7-10:続いて一般の人々の罪の償いの儀式です。アロンは、二匹の雄山羊を民から受け取り、臨在の幕屋の主の前に連れてきます。アロンは二匹の雄山羊についてくじを引きます。くじ引きで1匹の雄山羊は、“主のもの”とされ、もう一匹は“アザゼルのもの”となります。“主のもの”とされた雄山羊は、民の罪を償う為に血の犠牲として献げられます。先ほどの雄牛の血と同様に、雄山羊の血が、贖いの座に7回振りかけられます。雄山羊の血によって、全イスラエルの民の人々の罪の汚れを清める儀式を行われるのです。但し、動物の犠牲によっては人間の罪を完全に償うことにはなっていません。それは永遠に有効なものでもありません。なぜなら、動物の血を献げる儀式は、毎年同じ様に繰り返し行う必要があったからです。

20~22節:さてもう一匹の山羊は“アザゼルのもの”とされた山羊はどうなるのでしょう。まずアザゼルの山羊は、主のまえに連れてこられます。大祭司がアザゼルの山羊の頭に手を置き、全イスラエルの人々のすべての罪責、背きと罪を告げます。それによって、イスラエルのすべての罪が雄山羊の上に転移すると考えられたのです。その後、アザゼルの山羊は、荒れ野に追いやられます。つまり、全イスラエルの罪をかぶせられて追放されるのです。

アザゼルの山羊は、その後どうなるのでしょうか。山羊の行く先は、荒れ野で、水もなく草も生えていない場所で切り立った崖のようなたくさんあった所だといわれています。一説によれば、アザゼルの山羊は、崖から突き落とされたのではないかといいます。たとえ崖から落とされなくても、山羊は、荒れ野の牧草も水もないの所に放置されるのですから、飢えと渇きで徐々に弱っていきます。いずれにしてのアザゼルの山羊は、生きて元の場所に帰ることはありません。

ところでアザゼルとはいったい何でしょうか。アザゼルは、荒れ野の悪魔の名だといわれたこともあります。

もっと単純に、アザゼルはヘブライ語で、“どこかに逃げる”と“山羊”という言葉を付けた造語だと言われます。英語の「エスケープ(逃げる)」と「ゴート(山羊)」を付けて「エスケープ・ゴート」。そこから「スケープゴート」という言葉が出たといいます。

スケープゴートは、現代一般社会では一つは冤罪事件で罪をなすりつけられる人のことを指します。もう一つは、社会の不平不満のはけ口にされる人人々のことをスケープゴートといいます。時代や社会体制が変わっても、人間は集団の中に必ずスケープゴートを生み出します。それは大人の社会だけでなく、子どもたちの集団であっても変わりません。どんな集団の中にもスケープゴートになる人が出てきます。

キリストこそ全世界の罪を背負ったスケープゴートです。彼は大工の子、マリアの不義による子、罪人や徴税人と仲が良い、悪霊ベルゼブルの力で悪霊を追い出していると悪口をいわれ蔑まれました。十字架に苦しむイエスに世の人々はあらゆる罪と憎悪を投げつけました。しかし、イエス・キリストは人々から罵られても罵り返さず、人々の罪が赦しを求めて祈ってくださいました。   

かつての贖罪の儀式は、本当の贖い主キリストが現れる為の象徴、影の様なものでした。時が満ちてキリストがこられて罪の償いは完全なものとなりました。ですから、キリストが来られた後は、かつてのように毎年動物の血を流す犠牲のいけにえは必要はありません。山羊を荒れ野に打ち捨てるスケープゴートの儀式も必要ありません。今、わたしたちは心すべきことがあります。主がわたしたちの罪を背負ったのだから、もはやわたしたちの中からスケープゴートを出さないために努力すべきなのです。

荒れ布をまとうことも主の謙遜には比べられません。なぜなら主イエスが外形だけでなく、心から身を低くして歩まれたからです。主は神の子の身分であったのに、それに固執せずわたしたちと同じ人間として生まれました。主は、誰よりも身を引くして、神の身分に固執せず僕の姿で、世に現れた。十字架の死に至るまで神の前に従順に、わたしたちの罪を贖う為に歩まれました。十字架は、主が御自分の血を携えて天の聖所に入り、永遠の贖いをなしとげたのです。「イエスは御自分の肉を通って新しい生きたみちを開いてくださったのです。」キリストが、わたしたちの罪を背負って死なれたことが、全世界にとって罪の完全な償いとなったのです。それで罪人のわたしたちは神の前に出ることができたのです。

それでは、大贖罪日とはわたしたちにとって何を意味しているでしょうか。

レビ記16章29「第七の月の十日にはあなたたちは苦行する。何の仕事もしてはならない。土地に生まれた者も、あなたたちの元に寄留している者も同様である。」大贖罪日は、苦るしみの日であると言います。その理由は「この日に…あなたたちのすべての罪責が主の御前に清められるからである。これはあなたたちにとって最も厳かな安息日である」(30~31)。ここにわたしたちは、受難節の原点を見ます。主の苦しみによって、わたしたちの罪が完全に償われたからです。大祭司の亜麻布の服は、奴隷の衣服、葬式に身につける粗布のようであったこと。ここに主イエスが僕の姿をとったことを覚えます。受難節、主をスケープゴートにしてしまった、自分たちの罪を悲しみ、悔い改め、主の前に身を低くする日々として過ごしましょう。

「…互いに愛と善行に励みある人たちの習慣に従って集会を怠ったりせず互いに励まし合いましょう。かの日が近づいていることをしっているのですから、ますます励まし合おうではありませんか」(ヘブライ10章20~25)。主イエスは、十字架に掛かって、終わったのではありません。三日目に復活し、天に挙げられた主イエス・キリストは再びわたしたちの所に来られます。主の再臨の日が近づいているのです。わたしたちは、どのような時代になっても、互いに愛し合い、励まし合っていきましょう。

(説教者:堀地敦子牧師)