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つまずく弟子達

詩編90編13-17節、ヨハネによる福音書6章60-71節
主日礼拝説教

つまずく弟子達

3月も半ばを迎え春分の日を間近に控えています。主は昼と夜を分け、私達の歩みも主によって分けられます。主は正しき者と悪しき者とを分ける。それを教会用語では、「裁く」と表現します。主の御業は真実です。それを人の思いから判断しても、御言葉の真理に従うことにはなりません。

3月も半ばを迎え春分の日を間近に控えています。主は昼と夜を分け、私達の歩みも主によって分けられます。主は正しき者と悪しき者とを分ける。それを教会用語では、「裁く」と表現します。主の御業は真実です。それを人の思いから判断しても、御言葉の真理に従うことにはなりません。

そこで今朝は教団の聖書日課により、ヨハネ福音書6章から聞きます。この6章は、ガリラヤ湖畔で行われた五千人の給食の奇跡から始まりました。主イエスの周りには、女性や子供たちを含めては一万人以上の人々がいたとも知り得ます。人々は、目に見えるパンがもらえる時には主イエスに近寄っていましたが、主イエスが、御自分が誰であるかということを明らかにされるにつれて、人々は主イエスから一人二人と去っていきました。そしてその後ユダヤ人が出て来て、主イエスの言葉がわからずに呟きます。「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか、一体何を言っているか」と。しかも弟子達の多くの者でさえ「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」と言って主イエスに躓きます。66節では「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。」とあります。更には、一番近くにいた十二人の弟子達の中から主イエスを裏切る者、あのイスカリオテのユダの姿が浮かびます。これは明らかに、主イエスが与えるものと人々が求めるものが全く違っていたからに他なりません。目に見えるパンがある時、喜んで人々は主イエスに従って来て、その上、ユダヤの王にしようと思った。しかし主イエスが与えるものがパンではなく永遠の命・復活の命であることが知らされると、期待はずれと思ったのか、人々は主イエスからさっさと離れてしまったのです。

これはこの時に限ったことではありません。今を思えばどうでしょうか。教会に心を向ける大半の人々は、具体的な問題や課題を背負って教会の門をくぐります。いつか信仰によって、主イエスを信じることによって解決されると思い、熱心に祈り求めて礼拝やその他の集会に集う。しかし遅かれ早かれ問題が解決してしまえば、もうイエスは必要ない、日曜日に教会に来なくてもいい、献金もしなくて済む、集会などにも参加しなくてよくなる、ああよかったと思うようになる。また反対にその問題がなかなか解決されないでいると、イエスでは効き目がない、説教も面白くない、周りの人とも話が合わない、この教会では自分の願いが叶わないなどと考えて、身も心もイエスから離れて教会のキの字もキリストのキの字も自分から消してしまう。果てには他の宗教に移って、自分の心の落ち着きを求めて転々とするといったことが、実際、程度のさはあれども起きています。これは明らかに自分本位と言わざるを得ません。主イエスは、私達が人生で出会う数々の問題や課題を軽くは見ていません。聖書の至る所に記されている通り、ユダヤの人々の生活の中に主イエスがおられ、共に律法を重んじながら歩んでおられたのです。むしろ主イエスは、私達が出会う人生の様々な問題を真剣に受け止められて、解決の道をも拓いてくださるのです。しかしです。目先の解決そのものが全てではありません。それ以上の重要なもの、どんな困難も乗り切れる、そういう力ある希望、生きる力、それが永遠の命・復活の命です。主イエスは一人一人が抱えている具体的な問題や課題を引き受けられ、まことの道を開かれて、新しく生きる力と勇気とを与えてくださる。しかしその時、私達の眼差しは、目の前の問題や課題を突き抜けて、神の御国へと向けられるように変えられていきます。それも信仰の眼差しを与えられて、私達は目の前の思い煩いを乗り越えていくのです。それは、主が与えてくださった信仰によって生きる底力が与えられていくことです。

主イエスは、御自身が「天から降って来た命のパンである(6:41)」ことを人々に告げました。それは、主イエスが人々を永遠の命に至らせるために天から来られた方であり、この方との交わりに生きる中で私達は永遠の命を得ると知らされます。主イエスの肉を食べ、主イエスの血を飲むという言い方で、主イエスは御自身との命の交わりを確かなものにすることを告げられたのです。しかし弟子達の多くは、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」と呟いたのです。彼らは主イエスの言葉に驚くと共に、永遠の命を与えることが出来ると言われたことに躓いたとも解釈できます。それは彼らが第一に求めているものではなかった。しかもイエスは明らかにヨセフの息子なのに天から来て永遠の命を与えると宣言したものですから、彼らの心は複雑です。私達も主の言われることがわからなければ、主に祈り求めてゆく者でありたいと思います。そう出来なかった弟子達は、プライドや世間体などに心が支配されて、真実を受けとめることが出来なかった。
主は、弟子達の思いに気づいておられました。そして言います。「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。」と。原文には最後の「……」はありませんが、重みは十分に伝わります。主イエスの伝えんとする思いから、御自身が永遠の命を与えるために天より降って来られた神の御子であることを告げられるのですが、人々はヨセフの息子としか見ないものですから厄介です。それならばと主イエスは、私が十字架に架かり復活し昇天するのをはっきり見たら、あなたがたは信じられるのか、いや信じないだろう。むしろ出来過ぎた作り話として後世に語り継がれるだろうし、人々は神なきの罪、自分の欲にまみれた生活に陥るだろうという思いにあったかもしれません。

続く63節には「命を与えるのは”霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」とありますが、主イエスが問題にしているのは、徹底的に永遠の命です。この世の命の寿命や肉体の命がどんなに長く健康かではないのです。霊の食物であって、肉体を養う食物ではないのです。この永遠の命を与えるのは“霊”であると言われます。この“霊”は聖霊を意味します。人々が想像する魂である霊魂と区別するために、翻訳でも原文で真っ先に記される「霊」というものを強調して知らせる意味でも、引用符を付けています。主イエスはその言葉において、御自身が誰であり私達にどのような希望があるのかを語られます。この主イエスの言葉と共に神の霊・聖霊が働いてくださり、その言葉を聞く者に信仰が与えられ、永遠の命へと導かれていくのです。この私達の救いの過程・プロセスは、今もなお全く変わりはありません。主イエスの言葉が、聖霊なる神の働きの中で聖書の言葉を通して私達一人一人に告げられ、その言葉を真剣に聞き受け入れる一人ひとりに信仰が与えられるのです。それも神への応答は強制的でなく、御言葉が告げ知らされる中で、それぞれの決断が問われているのです。その意味で64節の言葉も決して乱暴なものでなく、主が御心のままになさることを明らかな仕方において告げられていることです。主イエスは初めから、誰が信じ信じないかを知っておられた。しかも次の節で、人間が信じるのには父なる神のゆるしがなければならないことを重ねて告げます。決して、自分でそう思ったから信じているも同然、私偉い万々歳ではないのです。そこで、誰が信じ信じないのかは神の側から決めて信仰を与えているとなれば、信じるか信じないかは人間に責任はないと考えてしまう過ちが起こります。70節を見ますと、「イエスは言われた。『あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。』」とあります。そうならば、主イエスはすべてを知った上で十二人の弟子を選んで、その結果ユダが裏切ったとなれば、初めから知っていてユダを選び、神があらかじめ仕組んだユダを「悪魔だ」と言うのは如何なものかと考える人も出て来ます。しかし創世記を見れば答えは明らかです。アダムとエバの罪の問題です。神はアダムとエバが食べるなと禁じても彼らが食べることを知っておられた。それならなぜ食べてはならない物を、手の届くところに置いていたのか。そそのかす神が悪い、アダムとエバは悪くないと考えるのと同じです。人の過ちを神の所為にしてしまうのは、明らかに違うと判ります。常に神は正しいのです。

そこで、常に教会の中で教え、正されていく信仰者としてのありようには、私達は神から与えられた自由と責任というものを忘れてはならないということです。もし私達にそれらがないならば、全ては神のお見通しの中で、機械的に全くの受身でひとりひとりの生き方が決定されてしまいます。そうなれば教えるという事態も学ぶという出来事もありません。それぞれが勝手気ままに、それこそ自分本位に、やりたいように思うままに生きていくことになります。実際、自由も責任も神任せならば、人間に意志も知恵もなく、更には理解や一致、希望や目的など何もなく、混沌とした創世記の初めの暗黒の只中にあるだけです。そうであれば、アダムとエバの罪もユダの裏切りも本人の所為ではなく、全ては神に仕組まれていたとなってしまいます。現代社会にあってその考えをもつ人は、その人自身、何をもってこの世に生き、今があるのかに答えが出るのでしょうか。もう一度言いますが、私達には自由が与えられています。自由と言っても勝手気ままではありません。乗り物や劇場の自由席を思えばわかりやすいです。自由といっても列車の屋根の上や窓、ドアにしがみついてもよしとされるか、昔はそういうこともありました。今でも東南アジアやアフリカ諸国で見られる光景ですが、自由とはそういうものでしょうか。また劇場でも、耳が遠いからとか目が見えにくいから、好きな俳優を間近で見たいからなどと言って舞台に上がって映画を観たり劇や音楽を楽しむことは許されないことを考えれば、自由は勝手と同じにはなり得ません。神は私達に自由を与えましたが、その自由を自分勝手に使うのではなく、神に従うために用いることを求めておられます。それに応える責任が教会の中にあり、信仰者として私達に求められていることです。神は私達の弱さを知っておられます。それにも拘らず神は私達に自由を与え、神に従い神と共に生きるために、猶予期間をもって、目の前の誘惑を退けて神の国へと向かうことを期待しておられます。

そもそもの話ですが、主イエスは人々が自分から離れ、弟子達の多くの者が主の御言葉に躓き、十二弟子の中からでさえも裏切る者がいることを御存知でした。主イエスの道は悲しみの道です。事実、主イエスの周りに信頼にたる者は一人もいなかった。そこで私達は、この人は自分を裏切る貶めると初めから知っていて、その人と心底から関わり続け、自分と同じようにまたそれ以上に愛することが出来るでしょうか。主イエスは全てを知った上で弟子達を選び、共に歩まれました。それは人の子となった神の御子が、たとえ全ての人間が神の御前にその自由と責任を放棄しても、主御自身は最後の一人として、まことの人間として歩まねばならないということを父なる神の御心として受け、応えようとされたのです。それは、ここに神と共に生きる、罪の縄目から解き放たれた新しい人間の出発があるからです。主イエスは、罪に死んだアダムとエバに代わって、永遠の命に至る新しい最初の人となるために父なる神のもとから、天から降って来られたのです。

主イエスは、多くの弟子達が自分を離れ去った後、十二弟子に問いました。「あなたがたも離れて行きたいか。」と。これは決して嫌味たっぷりの裏切り予告ではなく、「あなたたちは裏切らない」という期待の意味を込めた言葉です。そこでペトロは答えます。「あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」と。これはヨハネ福音書が記す信仰告白です。ペトロはこのように立派な信仰告白をしますが、のちにこのペトロもまた主イエスが捕らえられ十字架を目前にした前夜に、三度主イエスを知らないと言う弱い姿をさらします。実際、主イエスはこの時ペトロも自分を裏切ると知っていました。それでもペトロがこの告白をした心には、嘘はありませんでした。しかし裏切った。ペトロは自分の身の危険を避けるために、主イエスを裏切ったのです。死ぬことが恐ろしくなって、逃げてしまったのです。

主イエスはそのことを承知の上で、「あなたがたも離れて行くのか。」と問われました。信仰とは、主イエスと永遠に共に歩み生きることです。しかし、この世にある命が全てであるとなれば、その志は破れるのです。主イエスはそのことをも承知しておられ、その上で主イエスは問うのです。全ては十字架に向うためにあり、復活の命へと導くために、主はこれらの出来事を全て受け止められていた。だからこそ主イエスが、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。(54-56)」と告げられたことを思い起こします。キリストを食することは、天にあるキリストとの聖なる交わりを行うことです。信仰者にとっては、切り離せない出来事です。それは主イエスが自らを父なる神への思いに捧げるにおいて、救いの完成へと導く新たな契約を更新されたことにあります。この出来事は、終わりの日に至る救いの道へと確実に招いていきます。そこに現れる恵みが聖餐の恵みです。信仰者が今生きて働かれておられる主と食卓を共にし、神の国へと呼び集められることにおいて、教会の信仰共同体が新たな契約を与えられて、キリストの御体に連なる肢としてあるのです。だからこそ、信仰告白あっての聖餐の恵みなのです。

私達はクリスマスの恵みを知らされて、その恵みを受け止め、神の選びの自由と責任において、「神我らと共にいましたもう故に、我ら神と共に歩みたもう」と告白して、新たに歩み出しました。しかし主イエスは、私達の弱さゆえに、不完全さをなお持つ私達に対して、自ら十字架に架かって罪から救い出してくださった、だからこそ私達は自らの弱さに追いやられたり、留まって身動きができなくなったりはせず、それぞれの持ち場立場において御国の世継ぎとして主に応え、今もなお心憂う課題の多い世の中で、より鮮明に浮かび上がる救い主、イエス・キリストを証ししてゆく志が与えられます。受難節にある今、より深くまことなる救い主、イエス・キリストの十字架の道を感謝の内に覚えつつ、これからも主の御心を祈り求めて歩んでまいりたいと心から願うものです。

(説教者:協力牧師 鮎川 健一)