主日礼拝説教

わたしたちの神

わたしたちの神

わたしたちがしてきたことは無駄ではなかった。決して無駄ではなかった。そう思える人は幸いです。人生の終わりに、そのように言えたなら、その人生は、まちがいなく、神の恵みと慰めに満ちた人生といえるでしょう。

わたしたちの信仰の先達であるパウロも、テサロニケの教会の人びとにこう言っています。「わたしたちがそちらに行ったことは無駄ではありませんでした」(1節)。いや、「無駄どころか」、多くの苦しみを味ないながらも、あなたがたに神の福音を語り伝えることができました(2節)。そう語っています。

「以前フィリピで苦しめられ、辱められ」た、とパウロは振り返ります。パウロたちはまず、フィリピの町で伝道をし、そのあとテサロニケの町にやってきたのでした。そのときの様子は、使徒言行録16章11以下にでてきます。

パウロはまず、フィリピの町でキリストを宣べ伝えました。すぐに伝道の実りが与えられました。けれども町の人びとの多くは、パウロたちがキリストを宣べ伝えているのを快く思いませんでした。やがて反対する人びととの間で騒動が起きて、パウロとシラスは牢獄に捕らわれてしまいます。その後、神様の不思議な介入によって、牢獄から解放されたパウロたちは、フィリピの町からテサロニケの町へと伝道の拠点を移します。

しかし、テサロニケにやってきても、「激しい苦闘」がつづきました。ここでもまた、騒動が起こります。テサロニケの町に住むユダヤ人たちが、パウロらの伝道を妨害し始めたのです。ギリシア人たちの多くが、キリストに信じ従うようになったため、ユダヤ人たちはそれをねたんで暴動を起こし、町を混乱させました。

行く先々で、苦難が待ち受けていました。どこへ行っても、苦労がなくなることはありませんでした。それでもパウロたちは、たゆまず福音を人びとに語り続けました。

度重なる試練の中で、パウロが伝道し続けた理由は、ただひとつ。「わたしたちの神に勇気づけられ」たからです。

パウロには確信がありました。「わたしたちは神に認められ」、神から「福音をゆだねられている」のだという確信です。この確信が、パウロたちを支えました。この確信は、自分自身に対する確信ではありません。わたしを愛し、わたしの罪を赦し、わたしを罪から自由にしてくださった、神への確信です。

かつてパウロは、キリストの教会を根絶やしにすることを、生きがいにしていました。そのパウロをキリストが選び、救い出し、救い主キリストのために生涯をささげる者とされました。これまで自分のまちがった信念のために人生をささげてきた人間が、キリストと出会ったあとには、わたしたちの罪のために命を捨ててくださった、キリストのために生きる者へと変えられたのです。

それ以来、パウロには、迷いや不純な動機に振り回されることはありませんでした。ごまかしによって宣教してきたこともありません。そのことは、パウロの伝道の歩みが証ししています。パウロ自身が述べているように、激しい苦難や試練のなかでも、パウロは挫けませんでした。神から託された命の福音を決して宣べ伝えることを止めませんでした。もし自分の名誉や利得のためであったなら、とっくの昔に、福音に仕えることを止めていたでしょう。これほどまで苦しみを受けるとは! 地上での人生を損得で考えれば、キリストを宣べ伝えることは、割に合わないことだからです。

しかし、パウロは知っています。自分が宣べ伝えているキリストが、いかに尊いお方であるかを、知っていました。この御方こそ、わたしを救い、この世と人類を罪から解放することのできる、ただ一人の御方であると、心から信じていました。あれほど苦しみを受けながら、キリストを宣べ伝えることを決して止めなかったのは、パウロをパウロたらしめている神の絶大な力をすでに味わい、キリストによって生かされていたからにほかなりません。

度重なる試練と激しい苦しみの中でも、「わたしたちの神に勇気づけられた」と語るのは、このことでした。かつてキリストに敵対していたこのわたしを、神が選び、万国の預言者としてお立てになった。わたしは、この尊い務めには決してふさわしくない。しかし、今も生きておられるキリストが、わたしを赦し、救い、共に歩んでくださる。この神の恵みによって、パウロはあらゆる苦難の中で支えられ、守られてきたのでした。

「わたしたちは神に認められ」、「福音をゆだねられた」とパウロが語るとき、云われていたのは、このような神の恵みのことだったのです。

「神に認められ」とは、神が認めざるを得ない、ゆるぎない信仰が、パウロの内にあった、ということではありません。神の福音をゆだねるだけの能力や信念、行動力や人格がすでに完璧に備わっていたわけでもありません。

どこまでも欠けに満ちた人間パウロ、にもかかわらず、そのパウロを神が選び、赦し、清めて、神の尊い務めを託されたのでした。

同じように、主なる神は、わたしたち一人ひとりの信仰を吟味して、福音宣教という聖なる務めへと、わたしたちを召し出してくださっています。そのように神に召し出された群れこそが、教会なのです。

これまでパウロは、教会を根絶やしにすることに命をかけてきました。そのパウロに、すべてを捨てさせたキリストが、パウロの人生の新しい主人となられました。新しい永遠の主人に、パウロは、自分の人生のすべてをささげていくのです。

神の恵みによって、ゆるされざる罪を赦され、キリストを宣べ伝える使徒とされた。神の恵みへの確信が、激しい迫害と試練の中で、パウロを勇気づけ奮い立たせたのは、まちがいありません。

イエス・キリストの福音を神からゆだねられている者として、パウロはこのように語ります。「人に喜ばれるためではなく、…神に喜んでいただくため」に、わたしたちは祈り、語り、宣べ伝え、行動しているのだ、と。このことはとても大切です。

わたしたちは、神に喜んでいただこうと思っていたのに、いつのまにか、神を忘れ、人を喜ばすことにばかり心を傾けてしまう弱さがあります。

もちろん、神を愛し隣人を愛するのです。「人を喜ばそう」とすることのどこがいけないのですか? そう思うかもしれません。

しかし、神を忘れて、人を喜ばすことばかりに心を用いるとき、わたしたちは大切なことを見失っているのです。神よりも、人のことばかりを大切にする。それは、人の顔色をうかがい、人を恐れて行動していないか? 神の御心を、神ご自身のことを忘れてはいないか? そこが問われます。

神様ぬきで人を喜ばそうとするのは、実は、神よりも人間の方を恐れているからにほかなりません。でも、わたしたちが心から畏れ敬うべきは、父なる神です。父・子・聖霊なる神、ただおひとりです。この神だけが、パウロやわたしたちを、暗闇の中から救い出すことができました。神のみを神として真に畏れ敬うとき、あらゆる恐れから、わたしたちは解放されます。もう、人びとの顔色をうかがい、人を恐れて生きる必要はありません。人びとの反応を基準にして、生き方を決める必要もありません。

罪深いわたしたちを赦し、救い、愛してくださる神様だけが、ほんとうのよりどころです。この神に喜んでいただければ、それでよい。神様に喜んでいただくためなら、人に誤解されたり、迫害されても、それでよいではありませんか。わたしたちのすべては、神がご存じなのですから。神がすべてを知っていてくださりさえするなら、それでよい。それこそが、無駄ではなかったといえる人生ではないでしょうか。苦難のとき、わたしたちをほんとうに励まし、なぐさめてくださるのは、イエス・キリストだけです。どのようなときにも、わたしたちを勇気づけ、励まし、奮い立たせてくださるお方。この神こそ、イエス・キリストの父にして、わたしたちの神です。

わたしたちは、ほんとうに罪深い存在です。神から遠く離れ、神を神とは呼べないほど、罪に染まっています。しかし、そのようなわたしたちのために、天の父は、御子を惜しまず献げてくださいました。罪にまみれたわたしたちの代わりに、罪のない尊い独り子を、十字架の上で犠牲となさいました。こうして、イエス・キリストの神は、わたしたち罪人の神、となってくださったのです。「わたしたちの神」と呼ばれることを、神は、決して恥じたりなさいません。

この神に、喜んでいただくために、ありったけの思いをもって、神を賛美し、感謝をささげましょう。教会も、わたしたちの人生も、この神に喜んでいただくためにあるのですから。もう自分のため、人のために生きるのではなく、「わたしたちの神」となってくださった天の父のために、与えられた人生をささげていきたい。この神に選ばれ、イエス・キリストの福音を託された者として、「わたしたちの神」に喜んでいただけるように。神の恵みに感謝をもって応えていくわたしたちでありますように。聖霊の導きを祈ります。

(説教者:堀地正弘牧師)