主日礼拝説教

主のしるし

イザヤ書7章10~14節、ヨハネによる福音書20章30~31節

主のしるし

「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物には書かれていない。」(30節)。この言葉によって、ヨハネによる福音書は「しるしの福音書」と呼ばれています。

奇跡によって人は変わるでしょうか。目の前で奇跡が行われたら信じない人も信仰を持つようになるでしょうか。ヨハネの福音書は、わたしたちに問います。主イエスが行ったしるしはたくさんあります。主が行った最初のしるしは、ガリラヤのカナで行われた結婚式の席でした。客に出すぶどう酒がなくなって、主イエスは、召使い達に水瓶に水を一杯にしなさいと言います。その水を世話役のところにもっていくと、それは、良いぶどう酒に変わっていました。これが最初の奇跡です。弟子たちはイエスを信じました。

この後も主イエスは、公の伝道の場で多くのしるしと奇跡を行いました。二つ目のしるしは、主が役人の息子を癒された(4章43~54節)奇跡です。主イエスは、この子に直接会わずに「あなたの息子は生きる」と言葉で癒されました。

この後、主はベテスダの池で38年も病気で苦しんでいた人を癒し(6章6、8節)、生まれつき目の見えない人を癒されました(9章3~5節)。しかし、どちらの時も人々は主イエスを信じませんでした。特に生まれつき目が見えない人を癒された時、人々の反応は際だっています。「わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っている…あの者は…お前の目をどうやってあけたのか」(9章24~26)と最初から主イエスを罪人だと決め付けています。そして目の見えなかった人の両親は、ユダヤ人を恐れて、息子と主イエスとの距離を置いてしまうのです。 (9章20~21節)。「神は彼らの目を見えなくし、その心をかたくなにされた。こうして彼らは目で見ることなく、心で悟らず、立ち帰らない。」(12章40節)。「このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった」(12章37節)。奇跡を見てもこの世は変わらなかったのです。主がラザロを復活させたあの奇跡によって、祭司長達やファリサイ派の人たちはイエスを殺す決意を固めました。この世が神の御子に敵意を持つことを明らかにしたのです。

「これらのことが書かれたのは、あなたがたがイエスは神の子、メシアであると信じるためであり、信じてイエスの名により命を受けるためである」(31節)。主イエスがしるしを行われたのは、既に信じている弟子たちの前で、弟子たちの為に行われました。

たしかに主のしるしによって、つまづく人もいます。しかし、もう一方で確かな信仰に導かれて行く人々もいたのです。生まれつき見えなかった人は目を開かれ、主イエスを信じます。「あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです」 (9章33節)。ラザロの復活のしるしの時も信じる人々が生じます。ラザロの姉妹マルタを見ましょう。主イエスは、マルタに、あなたの兄弟は復活すると言われます。マルタは答えました。「終わりの日の復活の時に復活することは存じています」といいます。彼女の答えは、ユダヤ人なら誰もがこう答えるだろう模範的な答です。彼女は、先祖伝来の受け継がれて来た復活信仰を、言い表しています。ただマルタにとって、終わりの日復活の時は、いつ来るのか分からない、自分には関係ない遠い未来のことにしか思えないのです。しかし主イエスは言います。「わたしは、復活であり命である。生きていて、わたしを信じる者は死んでも生きる。このことを信じるか」。「主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じています」(11章27)。

主のしるしが書かれているのは、わたしたちが信じるようになるためです。イースターの時、トマスも、弟子たちも、復活された主イエスにであい、その傷を示されて、信じる者へ変えられました。主イエスの示された傷は、わたしたちにとって最も大切なしるしです。この傷は、主イエスがわたしたちの罪を背負い、この傷によってわたしたちの罪が赦されているしるしです。主イエスが世に来られたことで世界は、確実に変わっているのです。主イエスは、復活の主だからです。終わりの時は、主イエスによってわたしたちのところに来ているのです。わたしたちは主イエスの名によって死から命へ、移されています。主イエスによってわたしたちは、この世に居ながら、今すでに、復活の命を、新しい命の中に生き始めています。

だから教会は、主イエスが再び来られる時まで主の死を告げ知らせるのです。

主の十字架の死と復活、主の再臨の約束、それがわたし達に永遠の命を与えるしるしなのです。

(説教者:堀地敦子牧師)