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母のように(音声あり)

詩編91編4~5、テサロニケの信徒への手紙一2章5~8
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主日礼拝説教

音声でお聴きいただけます。

母のように

「ちょうど母親が…(自分の)子供を大事に育てるように…」(7節)。

テサロニケの教会、その信徒たちを、まるで自分の子どものように思って育てた。信仰へと養い育てた。そうパウロは口にします。

少しあとの11節では、「父親がその子供に対するように…」とありますから、ときには父親のように、あるときは母親のように。テサロニケの教会とそこに連なる信徒たち、教会に集まる求道者たちを、真心をもって信仰へと導いた。それがパウロの実感だったのでしょう。

朝も昼も夜も、子どもたちに寄り添って、守り育てる。おなかをすかせれば食べ物を与え、熱を出せば、寝ずに看病する。我が身を顧みず、見返りを求めず、犠牲をいとわずに、わが子のように、人々を救いへと導く。まさにパウロにとって、手塩にかけて育てたわが子たち。それが教会であり、信徒たちだったのです。

このパウロを、教会の人びとも心から愛し、敬い、慕っていたでしょう。まさに神の家族です。教会は神の家族。キリストによって集められ、一人の神をわれらの父と呼ぶ信仰の共同体。天の父のもとで互いに兄弟姉妹とされた、神の家族。それが教会です。

けれどもパウロは決して、自分の手の中に、教会や信徒たちを囲いこもうとはしていません。教会を私物化せず、キリストの体として教会を建て上げ、神のものキリストのものとして、教会を天の父にささげようとしています。

神の家族とはいっても、教会は、血のつながりによって結ばれた家族ではありません。信仰によって、キリストにより神に結ばれた家族、それが教会だからです。

「まるで母親のように」とパウロは言いました。この言葉は幼子、生まれたばかりの乳飲み子を自ら養い育てる母親のことです。と同時に、この言葉は「乳母」のことも表します。乳母とは、実の親から子どもを預かって、血のつながりのない子どもを、まるで自分の子どものように育てる存在です。パウロは、まるで「乳母」のように、信仰の子どもたちを神から預かって育てました。まるで血を分けた自分の子どものように大切に、教会とそこに集う人びとを、御言葉と祈りによって養い育てた。信仰へと育て上げた、とパウロは言うのです。

ですから、教会は神の家族だというとき、パウロは決して、血のつながりの延長で、教会のことを考えてはいません。聖霊が生み出した教会。キリストを土台とし、頭とする教会。キリストの体である教会を、教会と呼んでいます。

教会には、キリストを信じて洗礼を受けるようにと、聖霊に導かれ多くの人々が集まってきます。また、神の子どもとして新しく生まれたばかりの人びとが教会にはいます。これらの人びと、そして教会を、父なる神からお預かりして、信仰者の群れとして育てていく。キリストの体として建て上げていく。そのために神は、自分を選び、教会そして信徒たちの乳母として立てた。そうパウロは自覚しています。教会の信仰を育てるため、神が選び立てた乳母。神が選びとった信徒たちに、あなたが霊的なミルクを与え、御言葉と聖餐によって養い育てなさい。それが伝道者。そのような者として、神がパウロを召し出し、テサロニケに遣わされました。

ですから、教会の創始者である神は、教会の人びとにも、こう伝えているのです。乳母である伝道者にいつまでも固執してはならない。乳母から乳離れしなさい。キリストによってのみ立つ一人ひとり、教会となりなさい。「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし成長させてくださったのは神です。大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」(コリント一3章6)。このようにパウロも、教会を養い育てていったはずです。パウロは、教会建設者として自らに与えられた務めを、そのように受け止め果たしていきました。その証拠に、パウロはエフェソの教会との別れ際に、こう言っています。「今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、…すべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです」(使徒20章32)。

キリストだけが、信仰者に、教会へと、わたしたちを造り上げることができます。伝道者また牧師は、このことのため神に選び立てられた「仕えびと」「奉仕者」にすぎません。感謝と誉れ、栄光を受けるべき御方はただ一人、救い主イエス・キリストとその父なる神です。

教会そして信仰者たちのことを、まるでわが子のように愛し、育てたパウロは、少し前にこんなことを言っています。「(わたしは)あなたがたの間で、幼子のようになりました」(7節)。

母親また乳母のように、人びとを信仰に導こうとするなら、人はまず幼子のようになる必要があります。キリストがおっしゃったとおりです。「はっきり言っておく。心を入れ替えて」幼子のようにならなければ、「決して神の国に入ることはできない」。「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」。「わたしの名のためにこのような一人の子どもを受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」(マタイ18章3~5)。

パウロはきっと、テサロニケ教会の人びとの間で、誰よりも、神に対して幼子のようになったのです。乳母として教会に仕えるために、母のようになるよりもっと前に、まず、神に対して幼子のようになった。み言葉を心から求め、幼子となって、主の救いの恵みを受け取っていった。だからこそパウロは、教会の母・乳母として、多くのキリスト者を育て、教会を建てていくことができたにちがいありません。

信仰の母に育てられたわたしたち教会こそ、この世に生きる人々を、信仰へと養い育てる乳母であります。主イエス・キリストの前に、いつも幼子のごとくあれ。救い主イエス・キリストのもとにいることから、すべてが新しく始まるのです。

(説教者:堀地正弘牧師)