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神への献身(音声あり)

民数記6章1〜8節、コリントの信徒への手紙二2章14〜15節
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主日礼拝説教

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神への献身

1~2「主はモーセに仰せになった。男であれ女であれ特別な誓願を立て、主に献身してナジル人」ナジール人は、聖別された者を意味します。祭司は、アロンの系統の男しかなることはできません。ナジル人になるには、祭司の家系の男の人でなくとも、ごく普通の男女が主に誓いをたてナジル人になることができるのです。ナジル人は、自ら志願をした人もあれば、神から特別な使命を受けナジル人になる人もいました

ここには、ナジル人が守るべき三つの戒めが記されています。

3-4節:一つ目の戒め、ナジル人となったならば、「ぶどう酒や濃い酒も断ち、ぶどう酒の酢(ワインビネガー)も、濃い酒の酢も飲まず、ぶどう液は一切飲んではならない。またぶどうの実は、生であれ干したものであれ食べてはならない。」ぶどうの実から造ったもの、ぶどう酒もワインビネガーも、酒の入っていないぶどう液も、生のぶどうも干しぶどう、その他ぶどうの実から作られたものは、全て食べられません。ブドウの皮も実もすべて…。その理由は、明記されていません。

ブドウは、カナンの土地から受ける諸々の影響を指しています。イスラエルがこれからカナンの地に入って行くと、良くも悪くもカナン人達から影響を受けます。彼らの風趣、生活習慣、カナン人たちの宗教、彼らの拝んでいる数々の神々の偶像に、イスラエルが興味をもつかもしれません。

ぶどうから作られたものを食することを禁止したのは、異教徒からの影響に引きずりこまれて、イスラエルに偶像礼拝が持ち込まれないためのけじめの意味がありました。偶像を避けることは、わたしたちにとっても重要なことです。我々も、毎日の生活の中で、自覚のないまま、この世の考えに流されて、キリストを否む生き方をしているかもしれないからです。
5節:二つ目の戒めは、頭に剃刀を入れない。すなわち、髪の毛を切ることも髪を剥くも禁止されていました。髪の毛を切らない理由とはなんでしょう。髪の毛は、人間が生きている限り伸び続け成長していく部分です。髪の毛は、生命力の象徴だったのです。頭に剃刀を一切入れないで伸ばされた髪の毛は、ナジル人の献身を象徴する大切なものでありました。だからナジル人の髪は切られてはならないし、けがれを受けてもいけないのです。

6~7節:三つ目の戒めは、死体にふれることを禁止する戒めです。ナジル人が誓願を立てている間、何があっても死体に触れることは禁止されていました。死そのものが、けがれだからです。それでナジル人の誓願の期間は、たとえ父母、兄弟姉妹が死んだ場合も遺体にふれてはいけない。例外は認められませんでした。もし不測の事態で、自分の側で人が亡くなり、ナジル人が死体に触れてしまった場合は、今までのナジル人としての誓願は無効となります。意図せずして死のけがれを受けたナジル人は、七日の清めの儀式をします。献身のしるしである髪の毛を剃り、主に和解の捧げものをする。その後、ナジル人は改めて主に献身し、ナジル人の誓願の期間を定める(12)のです。

ナジル人になった人はどんな人たちだったのでしょうか。その代表は、サムソンです(士師記13章5、7)。サムソンの特徴は、生まれる前から死ぬまで生涯通してナジル人だったことです。サムソンの母は不妊の女性でした。サムソンの母となる人に、ある日天使が現れてこう告げました。あなたはみごもって男の子を産むと。さらに天使は母親に告げました。この子は、母の胎内に居るときからナジル人として主に聖別されている。この子には特別な使命がある。その子の使命は、イスラエルを侵略者ペリシテ人たちの手からから救うことでした。サムソンの母は、子どもが胎内にいるうちから「ぶどう酒も強い酒を飲むことも禁じられました。生まれる子はナジル人だから、この子が生きている間、頭にかみそりを当ててはいけないと天使は告げました。ですからサムソンは、大人になっても頭の毛にカミソリを当てなかったのです。ところが彼は恋人にナジル人の力の秘密を漏らした。その結果、サムソンは献身のしるしの髪の毛を切られて力を失います。それでも、サムソンは、生涯ナジル人でありました。彼の髪の毛がた時、再び伸びた力を取り戻し、彼は生涯で最も多くのぺリシテ人を倒します。サムソンは、イスラエルを侵略者から救った人です。サムソンは、神様との約束を守れないわたしたちを代表する人だったのです。

サムソン以降に、ナジル人の誓願をする人たちはどれ位いたのでしょうか。「お前たちはナジル人に酒を飲ませ、預言者に預言するなと命じた」(アモス2章12)。誓願をする人たちは、徐々に減って行き、ナジル人の誓願は廃れたと言われます。

新約聖書の時代、再び主に聖別された人が表れます。その人はバプテスマのヨハネです。「ぶどう酒や強い酒を飲まず、母の胎内にいるときから聖霊に満たされ…イスラエルの多くの子らを…主のもとに立ち返られる」(ルカ1章15~16)。ヨハネは、主に先立って行き、主の為に道を備えました。ヨハネが生まれて半年後に、イエス・キリストが現れたのです。そのキリストをわたしたちは十字架で死なせました。キリストの生涯は、我々の目には敗北に見えますが、それは真実ではありません。キリストの死は、世の罪を償う犠牲であり、キリストは、神との約束を守れないわたしたちの代わりにすべての約束を果たしてくださった方だからです。「神の約束はこの方に置いてことごとく「然り」となったのです」(コリント二1章20)。わたしたちが誠実でなくとも、キリストは誠実であられた。キリストの犠牲によって、罪人のわたし達は今、神に受け入れられています。だからこそこう言えます。「わたしたちは、キリストによって神に献げられるよい香りのよい香りです。」(コリント二2章15節)。

2020年7月12日 聖霊降臨節 第7主日礼拝 説教者:堀地敦子牧師