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よい知らせ

詩編63編7~9、テサロニケの信徒への手紙一3章6~10
お知らせ
主日礼拝説教

音声でお聴きいただけます。

よい知らせ

「よい知らせ」をパウロは受け取りました。テサロニケの教会から帰ってきたばかりのテモテから、教会の「よろこばしい」の様子を聞くことができたのです。

かつて、この町でパウロは伝道を繰り広げました。神の大いなる働きの中で用いられ、信じる者たちが大勢集められました。この町にも、主の教会が建ちました。しかし、喜びもつかの間、ユダヤ人たちの猛反対と迫害が起こり、パウロは町から事実上追放されてしまいます。テサロニケを去ったあと、この町の教会と信徒たちを心配して、パウロは、若い伝道者テモテを送ります。信仰に入ったばかりの信徒たち、この町の教会は、いったいどうなってしまっただろう? 迫害の中、信仰を失い、教会からキリストから離れてしまってはいないだろうか?

しかし、テサロニケから帰ってきたばかりのテモテから、「うれしい知らせ」が伝えられました。度重なる迫害の中でも、教会も信徒たちも無事でした。あらゆる困難と苦難に直面しながらも、その信仰は決して揺らぐことなく、主イエス・キリストにしっかり結ばれています。この知らせに、パウロは大いになぐさめられました。励まされました。自分のしてきたことは決して無駄ではなかった。テサロニケの信徒たちを、その信仰を、神様がお守りくださったのだと、喜びと感謝を覚えずにはいられませんでした。

パウロは、こう言っています。「あなたがたが今主にしっかりと結ばれている」ので、わたしたちは「生きています」。

たとえこの世で安定した生活を送ることができても、イエス・キリストから離れてしまったなら、決して無事とはいえません。もしそうなら、わたしは生きた心地がしない。生きてはいられない。それ以上のことをパウロは口にしています。

伝道者・牧師たちは、人びとにイエス・キリストを知らせ、救いに導くために神から召されています。教会で洗礼を受けた方たちが、その後も変わらず、キリストだけを救い主として仰いで生きていく。そのことにすべてを賭けています。教会で、牧師と信徒、人と人とがどれほど心を通わせ仲良く過ごしていても、もしキリストから心が離れているなら、その伝道はすべて失敗に終わります。

幸いなことにテサロニケの教会とパウロたちとの間は、そうではありませんでした。早く会いたい、もう一度会いたいと互いが切に願っていますが、それは人と人の結びつきによるのではない。教会は、同じ一人の救い主イエス・キリストに今もしっかりと結ばれています。この知らせが、パウロと教会の双方にとって、「良い知らせ」、「福音」となったのです。

パウロは喜びにあふれました。この喜びは、神が与えてくださったものです。あまりにも大きな喜びに、いったいどのように感謝をささげたらよいでしょうか。感謝の言葉もありません。そうパウロは言っています。それほどの喜びをお与えくださった神様に、言葉にならない感謝をささげ、そして祈ります。

ふりかえれば、テサロニケの教会の信徒たちは、これまでもあらゆる点でパウロを喜ばせてきました。この手紙の最初を見ても、それは明らかです。パウロにとって自慢の信徒たち、それがテサロニケの教会、人びとでした。

だからといってパウロは、彼らのあなたがたの信仰は非の打ちどころがない、信仰はすでに完成している、とは言いません。あなたがたの信仰はすばらしい、しかしまだ「足りないところ」がある。たくさんある。教会と人びとの信仰が豊かであろうが、欠けや不足だらけであろうが、パウロは、心から彼らを愛します。

そして言うのです。「あなたがたの信仰に必要なもの」、すなわち「あなたがたの信仰にまだ不足しているもの」を何とかして「補ってあげたい」。そう言って、あなたがたの信仰の足りないところが「補われるように」と、神に祈ります。

私が補ってあげよう。あなたがたに欠けているものを、わたしが与えよう。豊かなわたしの信仰を分けてあげよう、というのではありません。あなたがたも、わたしたちも、神の目から見たら、欠けや不足ばかりです。この欠けを補ってくださるのは神様だけです。だから、わたしたちのすべてご存じである神様に祈ろう。わたしたちの信仰にまだ足りないものを、神様、どうか与えてください。わたしたちの欠けを、あなたが補ってください。満たしてください。そう神に願い求めます。パウロは祈ります。夜も昼も、祈りつづけます。教会と信徒たち、そして自分自身のためにも祈るのです。

この祈りによって、教会は立っています。信仰の喜びをもたらしてくださるのは神様だけです。それゆえ、わたしたちが感謝すべき方は、神様です。あらゆることで、わたしたちは日々、神に感謝をささげます。イエス・キリストを通して、神様がわたしたちにしてくださったことを思い起こすなら、感謝の言葉もありません。これこそ本当の感謝です。自分に欠けているものを、神に祈り求めるだけでなく。欠けのある人のために、それが満たされるよう祈る。相手に欠けがあっても、互いに不足がある者どうし、互いにゆるし合い、愛し合い、受け入れ合っていく。あらゆることで神を喜び、神に感謝する。キリストを通して、すべてのすべてを神に祈り求める。教会はここに立ち続けます。喜び・感謝・祈り、教会も一人ひとりの信仰も、すべてはここから始まり、ここを目指していくのです。

2020年9月6日 聖霊降臨節 第15主日礼拝 説教者:堀地正弘牧師