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産みの苦しみ

マラキ書3章1、テサロニケの信徒への手紙一5章1~11
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産みの苦しみ

「泥棒が夜のいつごろやって来るか」、わかっていたら、「目を覚ましていて」、みすみす押し入らせはしない。「人の子は思いがけないときに来る」。だから「あなたがたも用意していなさい」(マタイ24章44)。主がいつ、再び来られてもよいように、信仰の備えをしなさい。

福音書の終わりで、キリストはこのように弟子たちにお語りになりました。テサロニケの教会の人びとにパウロが語った言葉は、キリストのこの御言葉にもとづいています。

「盗人が夜やって来るように、主の日は来る」(2節)。主御自身がそうおっしゃったからとはいえ、よくも救い主の到来を、泥棒にたとえたものです。

「その時や時期については…書き記す必要は」ない。キリストがいつ再臨されるのか、皆はもうその時を知っている、そう言ったのではありません。「その日、その時はだれも」知らない。「天使たちも子(キリスト)も知らない」。「ただ、父だけがご存じ」です(マタイ24章36)。

子なる神キリストさえも知らないのに、どうしてパウロが書いて知らせることができるでしょう? ただ、その日は必ずやって来ます。「無事だ、安全だ」と、人びとが日常をむさぼっているその間にも、主の日は確実に近づいています。

「泥棒がいつやって来るのかわかっていれば…みすみす押し入らせはしない」と、主イエスはおっしゃいました。「主は思いもかけないときに突然やって来る」。そこを言いたいわけです。それにしても不思議です。「いついつ、あなたの家をお訪ねします」と言ってからやって来る泥棒がどこにいるでしょう? ルパン三世とか怪盗二十面相ならともかく、現実にそのような話は聞いたことがありません。「あなたの家をお訪ねします」と言ってから来るのは、うれしい便りをもたらす人か、クリスマスイブにプレゼントを運んで来るサンタクロースです。

サンタクロースよりももっと偉大なキリストなのに、なぜ再臨の時や時期が秘密なのか? 御子キリストにさえ、その時を、なぜ天の父は隠されているのでしょう? それは、いつ主が来られてもよいように、信仰の備えをするためです。いつ来るかわからない、そこに緊張感が生まれます。わたしたちは、キリストによる罪の赦しや復活の約束を信じています。すでにこの救いにあずかっており、赦された恵みを味わっています。とてつもない恵みです。しかし悪くすると、この恵みに慣れっこになってしまい、目覚めて待つ、という信仰を忘れてしまいます。夜、酒に酔うように、信仰が眠り込んでしまうことがあります。

いわば「夜の子」「闇の子」に舞い戻ってしまいそうになる。そうした誘惑にさらされ、弱さを持つわたしたちに、パウロは言います。「目を覚ましなさい」。あなたがたはキリストの血潮によって、罪からあがなわれ、「光の子」とされているではないか! 十字架のキリストを見上げるなら、悩みと苦しみの中でも、「目を覚ましていられる」。そう戒め、励ますのです。

人間というのは、安心しすぎても緊張感を失いますが、苦悩があまりに深くなるときに眠りに落ちます。体は起きていても、精神とか信仰の心、さまざまな感覚が鈍くなるのです。冬山で遭難しかけると、死の恐怖から自分を守ろうと、体や精神の活動が落ちていくように。苦しみと不安のために平常心を失うこともあれば、反対に、激しい恐れの中で精神の感覚が鈍くなり、信仰が眠りに陥る。そういうときもあります。そのようなとき、十字架のキリストを見よ! わが罪のため、その身に追われたキリストの傷を見よ。主の痛みをわが痛みとせよ! 「無事だ、安全だ」と言って信仰が眠りそうになるわたしたちを、十字架のキリストがたたき起こす。苦しみの中で「もうだめだ」と絶望し、眠りに落ちてゆくわたしたちを、復活の主が信仰・希望・愛に目覚めさせてくださいます。

それにしても、キリストの再臨ほど大切なことはないのに、なぜ神は、その時や時期を教えてくださらないのでしょうか? わたしたちにも、キリストにも、なぜ隠したままなのでしょう。「信じて待つ」ことの喜びと恵みを、わたしたちにも味わってほしいからです。主イエスを信じて救われたわたしたちは、すでに「光の子」とされています。終わりの日、わたしが、あなたたちの救いを完成させる。そのために、御子キリストをあなたがたに、もう一度、遣わす。このことを、お前たちは心から信じているであろう。再び来られる主を待ち望み、どんなことがあっても、世の終わりまで、あなたたちは、この信仰に生き続けるだろう。父なる神は、わたしたちを、そう信じてくださっています。父が信じてくださるので、わたしたちも、主が再び来られるのを信じ、心から待ち望みます。心から信じて待っているのですから、時や時期を知らせる必要などないのです。

主は必ず来られます。わたしたちを迎えに。神のもとにわたしたちの住処を用意したら、すぐに戻って来て、わたしたちは神の国に迎え入れられます。その日その時まで、わたしたちと世界では、苦難が続きます。すべては産みの苦しみなのです。しかし産みの苦しみを越えたところには、遥かにまさる喜び・永遠の希望が、わたしたちを待ち受けています。

「愛は忍耐強い」、愛は「いらだたず」、「恨みを抱かない」。「真実を喜」び。「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」(コリント一13章)。「愛の賛歌」です。

キリストを信じ、愛するがゆえに、苦難に満ちたこの時代を、わたしたちは耐え忍んでいきます。いえ、神がわたしたちを愛し、罪のいけにえとして御子キリストをお与えくださいました。この神の愛に支えられ生かされてきたので、「すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」ことが、わたしたちにもできるようになります。「主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すこと」のできるものなど、何ひとつないからです。

喜びと感謝をもって、主が再び来たりたまふを、待ち望みましょう。望みをもって、われらの救い主を迎える準備をいたしましょう。

2020年11月29日 待降節 第1主日礼拝 説教者:堀地正弘牧師