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乳と蜜の流れる地

民数記13章25~33節、ヨハネによる福音書16章33節
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乳と蜜の流れる地

イスラエルが約束の地カナンに至るまでの旅路を、荒れ野の四十年といいます。実は、カナンの地までの道は、四十年かかる道ではありません。最短コースは、ペリシテ街道(地中海沿いの道)です。1週間ほどで約束の地に行けます。

しかし、「神は彼らをペリシテ街道には導かれなかった。それは 近道であったが、民が戦わねばならないことを知って後悔し、エジプトの帰ろうとするかもしれないと、思われたからである」(出エジプト13章17)。主はイスラエルを迂回させ、一年ほどシナイ山に滞在させました。その後、主が用意された道のりは四十日でカナンに辿り着く道でした。皆でカナンに出発する前に、主は偵察隊を送られました。民数記13~14章は、イスラエルが荒れ野で四十年の旅をしなければならなかった、その理由を記しています。

カナン偵察隊は、イスラエルの十二部族からそれぞれ部族ごとに一人ずつ各部族の指導者です。各部族から経験も見識もあり信頼できると思われた人たちが偵察隊に選ばれたのです。そこにヨシュアとカレブがいたのです。

「ネゲブに上り、更に山を登って行き、その土地がどんなところか調べてきなさい。彼らの住む土地が良いか悪いか、彼らの住む町がどんな所か調べてきなさい。…あなたたちは雄々しく行き、その土地の果物を取ってきなさい」(民数記13章17~20節より)。ネゲブは、アブラハムが故郷を出てから天幕を張って住んでいたところです(創世記12章9節)。ネゲブは生まれ故郷を出た後のアブラハムが、その後の生涯の大半をこのネゲブ地方で暮らしました。主は、アブラハムが旅した土地をあなたの子孫に与えると約束しています。偵察隊の任務は、アブラハムへの足跡を辿ることでもありました。その上で偵察隊の成すべきことは、町の様子や人々の様子等、約束の土地がどんな所かよく見てくることです。雄々しく行き、その地の実りを持ってくるように、そう言われて、十二人の偵察隊は出かけました。彼らは、エシュコルの谷に着くと一房のぶどうを刈り取り、担いで持ち帰って来ました。

四十日後、十二人は帰ってきました。モーセとアロンに、民全体に約束の土地について見聞きしたことを報告しました。十二人の偵察隊の見解が、二つに分かれます。それは、約束の土地に今すぐ行くべきか否かで分かれたのです。カレブとヨシュアの二人は、「今すぐにでも約束の地に行くべきだ」と言いました。ところが、他の十人は、反対しました。10対2です。多数決なら即否決です。

「あなたが遣わされた地方に行ってきました。そこは乳と蜜の流れるところでした。これがそこの果物です。しかし、その土地の住民は強く、町という町は城壁に囲まれ、たいそう大きくアナク人の子孫さえ見かけました。…」。カナンの土地は、確かに肥えていてすばらしいところかもしれません。でもそこは、強固な城壁に囲まれた町、体も大きく強そうな人々ばかりです。十人は、カナンの砦や先住民を見てすっかり怖じ気づいていました。十人の指導者達の動揺する姿を見て、民全体にも、動揺が走りました。

それでカレブは民を静めました。そしてモーセに言います。「すぐに上って行きましょう。わたしたちは(その土地)を占領しましょう。わたしたちにはそれは可能です」(30節)。たとえ強い敵がいようとても、わたしたちには、可能だとカレブは皆に訴えたのです。少年ダビデが鎧も着けずに石投げひも一つで巨人ゴリアテに立ち向かったように、カレブは約束の土地に今すぐに行こうと民を励ましたのです。ヨシュアも彼に賛成し、約束の地に行こうと民を説得します(14章6-10節)。

しかし、カレブと一緒に偵察に行った民の指導者たちは、尚も強烈に食い下がります。「いや、無理だ。あの民に向かって行くなど、出来るはずがない。彼らは我々よりずっと強い」。更に十人は、言います。「我々が偵察してきた土地は、そこに住み着こうとする者を食い尽くすような土地だ。…そこで我々が見たのはネフィリム(巨人)だ。我々は自分たちがいなごのように小さく見えた」。彼らは、約束の土地について、最初は乳と道が流れる土地だといっていました。しかし、彼らは前言を覆し、約束の土地の悪く言い始めます。神が与えると約束した土地は、とんでもないところだと、住む人を食い尽くす悪い土地だと…。約束の地について、民全体に悪い噂を広めたのです。この後、約束の土地について悪い噂を流した者たちは、疫病で主の前に死にました(民数記14章37)。偵察隊に行った十人の指導者たちは、自分達は小さく見えたといいました。彼らの言い分は、言葉の上では、謙虚に見えます。しかしこの場合には、謙遜とは言えません。彼らは、自分を小ささや至らなさを認めたのではなく、イスラエルをエジプトから救った主の力を、小さく、取るに足りないと思い、主に導かれてきた自分たちも小さいと言ったのです。カナン偵察に行った十二人の中で、ヨシュアとカレブだけが生き残りました(民数記14章37~38)。

一部のリーダー達だけでなく、みんなが主を信頼しなかったことが、イスラエル全体に重大な結果をもたらします。これからイスラエルは、四十年荒れ野で放浪することになります。このため出エジプトのイスラエル第一世代は、約束の地に入ることなく、荒れ野で死に絶え、荒れ野で生まれた第二世代が約束の地に行くことになります。第一世代の中でヨシュアとカレブの二人だけが約束の地に入ります。この二人は、第一世代と第二世代をつなぐ者、架け橋となったのです。

「すぐに上って行きましょう。わたしたちは(その土地)を占領しましょう。わたしたちにはそれは可能です」(30節)。カレブの発言は、大言壮語ではありません。誰も信じなくても、カレブは主によって約束の土地に行けると信じていたのです。信仰の戦いは、いかに主を信頼しきって行くか、否か、そこが生死の分かれ道です。カレブ、ヨシュアは主に信頼して生き残りました。荒れ野で生まれたイスラエルの第二世代も約束の土地に入ります。主の約束は、人々の不信仰によって妨げられることはないのです。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ福音書16章33)。この世で苦難があることを主イエスはご存じでした。しかし、この世で苦難にあっても、主イエスに信頼し雄々しく行けと主はわたしたちにも言われています。「わたしを強めて下さる方のお陰で、わたしにはすべて可能です。」(フィリピ4章13)。牢中のパウロは知っていました。たとえ自分が、牢獄にいても、主イエスの福音が閉じこめられてはいないのです。

この世の誰も信じなくとも主は再び地上に来られ、わたしたちに神の国を受け継ぐ用意をしてくださるのです。その時、わたしたちはヨシュアやカレブのように主の約束された御国に入るのか、それとも滅んでしまった十人のようになるか、それは只、主のみがご存じです。

2021年1月10日 降誕節 第3主日礼拝 説教者:堀地敦子牧師