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神を喜び祝う民

詩編66編5~9、ヘブライ人への手紙11章27~29
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主日礼拝説教

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神を喜び祝う民

「主を喜び祝う」とは、どういうことを言うのでしょう? 「神を喜び祝う民」とは、いったい、どのような人たちのことでしょうか?

詩編66は、わたしたちにこう呼びかけています。「来て、仰ぎ見よ、神の御業を!」(5節)。そして、こう続けます。「神は海を変えて乾いた土地とされた」。これはイスラエルにとって、もっとも大いなる神のくすしき御業、出エジプトの救いの業のことを言っています。

アブラハムの子らが、エジプトで奴隷の生活を何百年も強いられていたとき、主なる神は、救いを求めるイスラエルの叫びを聞きました。そこで神自ら降って行って、エジプトの奴隷の家から、イスラエルをご自分の民として導き出したのです。この出エジプトという神の救いの御業に仕えたのが、預言者モーセでした。

神の手によってエジプトから導き出されたばかりのイスラエル、その行く手には、大海原が立ちはだかりました。後ろからは、エジプトの軍勢が大挙して押し寄せて来ます。絶体絶命のとき、天の父は、自らの手で、海の水を真二つに分けました。海の中に乾いた土地が現れると、この道を通って、イスラエルは向こう岸に渡り切ることができました。あとから追いかけてきたエジプトの軍隊は、もとに戻った海の水に飲み込まれ、滅んでいきました。水の中に、神が開いた救いの道を、イスラエルは歩みました。

あれから40年、イスラエルは、神の手に導かれて、砂漠の道をたどり続けます。その旅も終わりを迎えたころ、ついにイスラエルは、神が約束した土地に入っていきます。このときも、目の前に立ちはだかるヨルダン川の水の流れを神はその手でせき止め、大河の中に現れた道をイスラエルは歩みます。約束の土地に彼らを導き入れるためです。こうしてイスラエルは、40年の年月を越えて、ついに神が約束した「乳と蜜の流れる土地」、アブラハムに与えると神が約束した祝福の土地に、入っていくことができました。

神がイスラエルのために起こした偉大な奇跡、出エジプトの救いの業を、「来て、仰ぎ見よ」と、聖書はわたしたちに告げています。「神の偉大な救い」を仰ぎ見て、イスラエルは皆で、「神を喜び祝い」ました。つまり、神の救いの業を身をもって体験し、救いの神を「喜び祝う」者たちこそ、神の民、イスラエルだったのです。しかも彼らは、奴隷の家から解放された救いの始まりだけを味わったのではありません。荒野の40年を経験し、試練と困難をも味わいました。自分たちがいかに不信仰で、かたくなで、神様にふさわしくないかを荒野で思い知らされました。

にもかかわらず、主なる神は、不信仰と罪をくり返すイスラエルを、決して見捨てませんでした。度重なる罪に怒りを発しながら、神は怒りと裁きによって、イスラエルを悔い改めへと導きます。荒野の中で、真実な悔い改めを示した者たちを、神は、終わりまで導き通しました。40年の荒野の中で、滅んでも不思議でなかったイスラエルが、苦難の道のりを通って、神の民にふさわしい者へと練り清められていきました。こうしてイスラエルは、救いの最初だけでなく、神が備えた救いの完成を、約束の土地で仰ぎ見たのです。

すべては、主なる神がどこまでも憐み深く、怒るにおそい、忍耐強い父でいらしたためです。かつてアブラハムに誓われたあの約束を、神ご自身どこまでも誠実に守り通されました。こうしてイスラエルは、荒野の中で信仰を清められていき、ついに「神を喜び祝う民」へと生まれ変わっていきました。

わたしたちもそうです。数千年のへだたりを越えて、「主なる神を喜び祝う」ことへと招かれています。神によって救われた者の人生は、救いを味わったがゆえに、神を喜び祝う人生となります。もし神を喜び祝うことを知らない人がいるとすれば、それは神の救いをまだほんとうには味わったことがないからです。救いの恵みを知らなければ、どうして救い主を喜び祝うことができるでしょう。

でも、わたしたちはもう知っています。すでに味わいました。今も味わっています。主イエス・キリストの救いを、あふれるほど受け、今も救いがわたしたちを追いかけてきます。わたしたちの全身全霊を、聖霊の神が、イエス・キリストの救いで満たしてくださっています。だから今、イエス・キリストがわたしたちのために成し遂げてくださった救いのゆえ、心から主を喜び祝います。

わたしたちの神は、今もそしてこれからも永遠に、イエス・キリストによって、わたしたちを救いつづけ、支配されます。力強い御手で、鋭くも暖かい御目で、世界中を見渡し、導かれます。神の手、神の目から逃れられるものなど何一つありません。かつてのイスラエルのように、神に対しておごり高ぶる者を、神は決して許しません。しかし、神の前に身を低くして、イエス・キリストをわたしたちのために惜しみなく十字架でお与えになった、父なる神に感謝する者たちには、祝福と救いが追いかけてくるでしょう。

イエス・キリストの父なる神を、今日も「喜び祝い」、心の底から感謝をささげます。世界中の人びと、われわれの近くにいる方々が、まもなく一緒に、主なる神を拝み、主イエス・キリストを喜び祝うようになるでしょう。賛美の歌声が世界中にこだまする日が、すぐそこまで来ています。

キリストを惜しまず差し出した神は、わたしたちの魂に命を与え、わたしたちの足元を確かにされます。主に依り頼むわたしたちがよろめくのを、神は決してお許しになりません。これほどまで確かな神のご支配の中に、すでにわたしたちは導き入れられています。神の確かさの中を生き始めています。これほどの幸い、恵みがはたしてあるでしょうか? 信じがたいほどです。

「主を喜び祝う民」とは、いったい、誰のことでしょう? わたしたち教会のことです。教会こそ、救い主を喜び祝う民なのです。主の救いをすでに味わっているわたしたち以外に、いったいだれが、まことに神を喜び、祝うことができるでしょう?

かつて神がイスラエルに与えた出エジプトより、はるかに偉大な救いが、今、キリストによって成し遂げられました。キリストの救いを味わった者、来るべき神の国を味わい始めた一人ひとりとして、主イエス・キリストを喜び祝いましょう。今よりも、もっと、主を喜び祝うことができるように、救いの真髄をさらに味わわせていただけますよう、聖霊の神に祈り願おうではありませんか。

主を喜び祝うことこそ、教会の力の源です。このことにおいて、わたしたちはもっともっと一つになれるでしょう。主を喜び祝う日々がわたしたちの人生となり、永遠の神の国に至る一歩一歩となりますように。

2021年1月24日 降誕節 第5主日礼拝 説教者:堀地正弘牧師