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祝福の祈り

民数記6章22~27節、コリントの信徒への手紙一13章12~13節
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主日礼拝説教

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祝福の祈り

民数記6章22~27節は、祝福の祈りです。アロンの祝福とも呼ばれています。恐れと不安に襲われたとき親しい人の顔が見えるとほっとします。見知らぬ人々の中に親しい人の笑顔が見えることはわたしたちを安心させてくれます。大人も子どものその点は同じです。この祝福は神がわたしたちの顔を向けることなのです。

「主はモーセに仰せになった。アロンとその子らに言いなさい。あなたたちはイスラエルの人々を祝福して、次のように言いなさい」(22~23節)
祝福の祈りをするのは、アロンとその息子たち、そして後の時代の祭司たちです。但しこの祝福の言葉を与えてくださったのは主です。祝福を実現するのは、主です。祝福の主はモーセでもアロンでもその息子たちでもなく主なる神なのです。主である神は、強い意志を持って、御自分の選ばれたものたちを祝福すると言われます。

24:「主があなたと祝福し、あなたを守られるように」主である神がイスラエルの会衆全体を祝福し守ってくださるように。最初の言葉は、父祖アブラハムの時代からの全ての祝福を豊かに成し遂げられることをも含んでいます。主の豊かな祝福によって、イスラエルは繁栄しその手の働きが祝福される。その結果として土地に豊かな実りがある。主があらゆる面で恵みを豊かに与えてくださるのです。

天地万物は神の祝福の中で造られました。天地を造られた主は、今もわたしたちとこの世界を守ってくださる。神は、御自分の民との契約を誠実に守ってくださる。安心して未来に向かう為の祝福です。実際に神が守ってくださらなければ、この世界もわたしたちも、たちまち崩壊するしかないのです。

25~26節:「主が御顔を向けて、あなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けてあなたに平安を賜るように」。「あなたはわたしの顔の前を歩き、全きものとなりなさい」(創世記17章1)アブラハムが99歳の時にあらわれて、言われた主の言葉です。アブラハムの人生はいつも主の御前にありました。

主の顔の前に生きるには、先ず主がわたしたちに顔を向けてくださらなければ始まらないのです。わたしたちの方からは、主は見えません。主がわたしたちをどこに導こうとなさるのか、わたしたちには分かりません。主は創造主でありわたしたちは造られたものです。主が顔を向けて示してくださらないと、主と共にある歩みは始められないのです。もう一つ、罪人のわたしたちには神の御顔をまともに見ることはできないのです。アダムが神の前から隠れなければ成らなかったように。罪あるわたした達は、神に顔を背けらえる存在です。「その日、この民に対してわたしの怒りは燃え、わたしは彼らを捨て、わたしの顔を隠す。民は焼き尽くされることになり多くの災いと苦難に襲われる」(申命記31章17~18)。申命記の言葉は、直接には、エルサレム崩壊とバビロン捕囚を示します。それはわたしたちの問題でもあります。イスラエルに起こったこと、彼らの過ちとその結果は、わたしたちへの警告として起こりました。イスラエルと同様にわたしたちは誰もが神に背いてきました。もし神がわたしたちを憐れんでくださらなければ…何の望もありません。すでにアダムの時から人類の罪のために、全地は呪われたものとなっています(創世記3章17~18)。憐れみ深い神は、罪深いわたしたちのために御子をお与えになりました。それは御子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためです。しかし、世の人々は、自分たちの救い主であるこの方を受け入れず、十字架に付けました。「わが神、わが神、なにゆえわたしをお見捨てになったのですか」御子は、神からも、世の全ての人々からも見捨てられて十字架にかけられたのです。

十字架に掛かる主イエスから、わたしたち自身も顔を背けてきました。わたしたちは思っていました。神に見捨てられたから、あのように惨めな最後を遂げたのだと。しかし、本当に神から見捨てられるべきだったのはわたしたちです。主イエスが背負った十字架は、わたしたちの罪であり、主の負った傷がわたしたちをいやしたのです。「主が御顔をあなたに向けてあなたに平和を賜るように」この平和は、キリスト故に与えられた平和です。

キリストの故に、神はわたしたちに顔を向けてくださいます。

恐れと不安の中に生きるわたしたちに主は今も御顔を向けられています。主イエスが約束されたからです。世の終わりまで共にいると。主が再び来られる「その時には、顔と顔を合わせて見ることになる」(コリント一13章12)。主イエスキリストの御顔を仰ぐ日を待ち望みましょう。

2020年7月26日 聖霊降臨節 第9主日礼拝 説教者:堀地敦子牧師