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誇るべき冠

ヨブ記2章3~7節、テサロニケの信徒への手紙一2章17~20節
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主日礼拝説教

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誇るべき冠

ソーシャルディスタンスという言葉があります。社会的な距離をとろう、人と人との距離を取って、感染を防ごうというものです。同じことですが、フィジカルディスタンスという言い方もあります。身体的な距離を取る。社会的な距離を取るというと、人と人との交わりがなくなってしまう。取るのはあくまで体と体の距離で、その分、心と心は近くありたい。そういう意味です。

パウロは、今でいうソーシャルディスタンス、フィジカルディスタンスの中にいました。テサロニケ教会の信徒たちから、引き離されてしまいました。この町で精力的に伝道したため、ユダヤ人たちから怒りを買い、やむなく町を去らねばならなかったのです。使徒言行録17章によれば、パウロはユダヤ人の会堂に行って、キリストの十字架と復活を力強く解き明かしました。ユダヤ人や多くのギリシア人、町の主だった婦人たちが大勢、キリストを信じて教会に加わりました。町のユダヤ人たちはこれを見てねたみ、妨害を始めます。町のならず者を抱き込んで暴動を起こし、テサロニケの町を混乱に陥れました。この様子をみた教会の信徒たちが、パウロのことを心配して、夜中に町から逃がしたのです。

こうしてパウロたちの伝道は、次の町に移りました。アテネ、コリント、エフェソの町へと、福音は伝えられます。もしテサロニケで何も起こらず、パウロたちがその教会に長く留まっていたら、コリントやエフェソでのその後の伝道はなかったかもしれません。妨害や迫害が激しくなればなるほど、かえって伝道は前進する。神の不思議なご計画を見る思いです。

とはいえパウロにとって、産声を上げてまもないテサロニケの教会、信徒たちのその後が気がかりでした。一刻も早く、あなたたちに会いたい。「あなたがたから引き離されていたので」、あなたがたの顔を早く見たい。たとえ体と体は引き離されていても、わたしの心はいつも、あなたたちと共にあります。そう言って、今も町で迫害にさらされている信徒たちを励まします。パウロもまた、どこへ行っても迫害にさらされました。とてもつらい思いをしていたはずなのに、同じ境遇にあるテサロニケの信徒たちを思いやる言葉を送ります。彼らを励ますことで、自分自身をふるい立たせようとしていたのかもしれません。

パウロは続けます。何度もそちらに行こうと試みたのに、どうしてもうまくいかない。ますます状況は悪くなるばかりです。これは単に妨害する人間がいるからでしょうか? いいえ、迫害や妨害の背後には必ずサタン・悪魔がいます。そうパウロは見ていました。アダムとエバを罪に誘ったあの蛇が、今もわれわれ人間の心の弱さにつけこんで、キリストが宣べ伝えられることを妨げている。キリストを信じて洗礼を受けた人びとを、迫害や試練の恐怖に陥れて、信仰の道から引き離そうとしている。悪魔め、なんということを! どうか救い主イエス・キリストから離れないでいてほしい。そう訴えます。

パウロがサタンの仕業だ!と言ったのには、意味があります。ヨブ記です。神が誇りとする信仰者ヨブを、悪魔は誘惑しようとやって来ます。ヨブを試みることを、神は許します。ただ、ヨブの命を奪ってはならないと条件をつけます。すると悪魔は、さっそくヨブを試み始めました。しかし悪魔は、神が許した以上に悪を働くことができません。この世界は罪にあふれていますが、この世界を完全に支配しておられるのは悪魔ではなく、神なのです。

サタンの名を出すことで、パウロは、悲劇的な現実に押しつぶされそうになっているわたしたちに、神の力を思い出させようとします。昔も今もサタンが暗躍し、われわれの心はふさがれて、神の光が見えなくなっています。でも、闇がどれほど深くとも、闇の中で光は輝いている。世の光イエス・キリストがいる。キリストが、あなたがたを見て、喜び誇りとしている。そう告げます。 

手紙の言葉それ自体は、迫害をよく耐え忍んでいるテサロニケの信仰者たちを、伝道者パウロが、「わたしたちの希望、喜び、誇るべき冠です」と呼んでいます。でも、パウロの背後には、救い主イエス・キリストがおられます。わたしパウロがあなたがたをそう思っている以上、救い主イエス・キリストが、あなたがたを「わが希望、わが喜び、わが誇り」と思ってやまない。パウロがテサロニケの教会に賛辞を惜しまなかったのは、彼らもパウロも、キリストの名のゆえに、父なる神から、わが望み、わが喜び、誇るべき冠と呼ばれているからです。その証拠に、パウロははっきり言いました。「わたしたちの主イエスが来られるとき、その御前で」、あなたがたこそ希望、喜び、誇りです。そう言ったのです。

世の終わりに再びイエス・キリストが来られます。「神が喜び、誇りとする」、そのような信仰者になりなさい。そこを目指しなさい。キリストの十字架のゆえに、わたしたちはすでに今、「神の喜び」「神の誉れ」とみなされています。地上にあるどの教会も、信徒たちも、神の恵みによって、そのような栄えある道をすでに生き始めています。

今わたしたちは、自宅におられる方たちと教会にこうしている者と、体と体は離れているかもしれません。あるいは、試練の中で、天におられるキリストから遠く離れているように思うかもしれません。でもキリストは聖霊によって、いつもわたしのすぐそばにいてくださいます。心配はいりません。わたしたち兄弟姉妹は、たとえ体と体は離れていても、心はキリストと共にあるからです。わたしたち教会は救い主イエス・キリストの体、キリストが教会の頭です。わたしたちの信仰の交わりには、いつも真ん中に、イエス・キリストが必ずおられます。
世界の只中に、今日も主が立っておられるのです。

2020年8月2日 聖霊降臨節 第10主日礼拝 説教者:堀地正弘牧師