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二本のラッパ

民数記10章1~11節、ヨハネによる福音書14章31節
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主日礼拝説教

音声でお聴きいただけます。

二本のラッパ

8/6広島に、9日長崎に原爆が投下され75年、いまだ核兵はなくならない。

1~2「主はモーセに仰せになった。銀のラッパを二本作りなさい。」。銀二本のラッパは、銀で出来ていてハンマーで打ち出し作りとする。

主はこのラッパを、何に使えというのでしょう。「イスラエルの共同体を呼び集めたり、宿営地からテントを畳んで次の場所へ、イスラエルの人々を旅立たせる為に用いなさい。」と主は言われます。

エジプトから出てきたイスラエルが、シナイ山に来て、もうすぐ二年目に入ろうとしています。シナイからの旅立ちはもうすぐです。イスラエルがエジプトを出たのは、ただ奴隷生活から逃げ出す為ではありません。エジプトから離れたのは、約束の土地に入る為です。主がアブラハムにあなたにこの土地を与えると言われたあのカナンにはいることです。

3節:二つともラッパが吹かれるのは、イスラエルの会衆全体がモーセのもとに臨在の幕屋の入り口に集まる為です。臨在の幕屋にとは(出エジプト記33章7~11)、モーセが宿営から離れたところに天幕を張り臨在の幕屋と呼ぶようになった。主に伺いを立てる者は誰でも臨在の幕屋に行く。モーセが臨在の幕屋に入って主と語った。その時、人々は各々自分の幕屋の入り口で礼拝しました。モーセが臨在の幕屋に入り、主がモーセと語る間、臨在の幕屋の入り口に雲の柱が降りていた。

ラッパが一つだけ吹かれた時には、イスラエルの部族のごとの指導者達がモーセのところに集まるあいずでした。

5節「あなたたちが出陣のラッパを吹くと東に宿営している者が旅立ち、二度目の出陣ラッパを吹くと南に宿営している者が旅立つ。彼らの出発に際してはラッパを吹く。会衆を集めるときもラッパを吹くが出陣ラッパは鳴らさない。ラッパを吹くのはアロンの子らの役目であって、…世々にわたって守るべき」

荒れ野のイスラエルの旅は主に導かれた。イスラエルがどこに宿営をはっていても主が出発を促すなら出ていく。イスラエルが先を急いでいても、主がまだ待つように、先を急ぐなと求めるならイスラエルはその地に留まります。
荒れ野のイスラエルの旅は長いものになる。足止めの日々も含まれる。一日か一週間かそれとももっと長くとどまるか。

イスラエルは、雲の動きにあわせてとどまってる。信仰はこの荒れ野の旅路を通して養われる。

8節:イスラエルにラッパを吹いて合図を送るのはアロンの子孫である祭司に託されます。

9~10節:このラッパは後にイスラエルが約束の地に入ったときも使われます。
一つは、出陣。イスラエルが約束の地に行っても、苦労があります。それは近隣諸国に侵略されることです。ペリシテ人、アンモン人、末期にはアッシリアやバビロンが侵略してきます。イスラエルを攻撃されたら黙って座して滅び
待つのではない。侵略者たちを追い払う為の出陣、そのための召集の合図でした。この世にあって罪との闘う、悪の誘惑に負けないための信仰の戦いにわれわれも召されている合図である。もう一つはあなたたちの喜び祝う祝日、祭司達はラッパを吹来ます。「…百二十人のラッパ奏者の祭司たちと共に祭壇の東側に立っていた。ラッパ奏者と詠唱者は声を合わせて主を賛美し、ほめたたえた。」(歴代誌下5章12~13)。

アロンの系統の祭司のラッパ奏者は120人。

主が示された銀のラッパは、主の顕現、主が荒れ野で民を約束の地に導いて行くための物であった。

ラッパの合図のことは、新約の時代どう考えられるのか。「人の子は、大きなラッパを合図にその天使たちを使わす。天使達は、天の果てから果てまで彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める」(マタイ24章30~31節)。主は歴史の終わりのシグナルにラッパが鳴り選ばれた者たちが集められるといわれました。その日、その時は誰も知りません。臨在の幕屋の前にイスラエルが集められたように、その時、世界中の選ばれた人々が主の前にあつめられる。

10「あなたの喜び祝う祝日、焼き尽くす献げ物、和解の献げ物に向かってラッパを吹きなさい。そうすれば、あなたたちは、あなたたちの神の御前に覚えられる。わたしは主、あなたの神」。主はエジプトでモーセに現れました。わたしは在るという者だと。イスラエルの毎回の祝日にラッパが吹かれる時、主はイスラエルの民を思い出してくださる。これが神の約束です。イスラエルは約束の地で神の契約を破ったので捕囚になりました。イスラエルも異邦人も皆神を裏切った者達です。もし主イエスがわたしたちの為に世にこられなかったら。罪人のわたしたちは、主に忘れられても「わたしは、あなたがたを知らない」そういわれても仕方がない者たちです。しかし神はわたしたちを見捨てず御子を与えてくださいました。主イエスは、わたしたちの罪が赦されるため、和解の為のいけにえとなってくださった。「主よ、御国においでになるときはわたしを思い出してください」(ルカ23章42)主イエスの故に、神はわたしたちに御心を留め、父と御子の交わりにいるのです。

今わたしたちが主イエスの名によって礼拝する。礼拝堂であるいは自宅で礼拝します。イスラエルが臨在の幕屋で主を礼拝する時も、自分の天幕入り口で礼拝した時も主は民をお覚えていました。わたしたちも主イエスによって父である神に覚えられています。「わたしの名によって何かを父に願うなら、父は与えてくださる」(ヨハネ16章23)。父の備える永遠の国を待ち望みつつ今日を主イエスを仰ぎ見ましょう。

2020年8月9日 聖霊降臨節 第11主日礼拝 説教者:堀地敦子牧師