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苦難を生きる

イザヤ書49章21節、テサロニケの信徒への手紙一3章1~5節
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主日礼拝説教

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苦難を生きる

「そこで(わたしは)もはや我慢できず、わたしたちだけがアテネに残ることにし、…協力者テモテをそちらに」送ることにした。

パウロは、いったい何に我慢できなくなったのでしょう? キリストの福音を懸命に伝えれば伝えるほど、理解されず、ユダヤ人たちから迫害されてきました。来る日も来る日も、度重なる試練に、ついに心が折れてしまったのでしょうか? いえ、テサロニケの信徒たちから、これ以上、離れていることに耐えられなくなったのです。テサロニケの町から追放され、教会の信徒たちから無理やり引き離されました。しかも、この町でも厳しい迫害が起こっていて、信仰に入ってまもない彼らはどうしているか。「誘惑する者に惑わされて」、せっかく導き入れられた信仰の道から離れてしまっていないか? 気がかりでならなかったのです。

パウロは決心しました。これまでいっしょにキリストを宣べ伝えてきた若い伝道者テモテを、自分の代わりにテサロニケに遣わしました。テモテを通して、「あなたがたを励まし、信仰を強め、このような苦難に遭っていても、だれ一人動揺することのないようにするためでした」。テモテは、パウロと共に福音を伝えてきた人です。パウロがもっとも信頼してきた協力者です。年長者パウロの身の回りの世話も、進んでしていました。テモテがいなくなれば、パウロは一人になってしまいます。迫害を味わっていたパウロは、不自由や孤独を味わうことになります。それでもパウロは、テサロニケの信徒たちを放っておくことができなかったのです。  

「だれ一人」、決して「動揺することがないように」。そうパウロは語ります。けれども、激しい試練や迫害に遭って、「動揺しない」人などいるでしょうか? 昔も今も、苦しみにあえば、わたしたちの心と体は、かならず揺れ動きます。草や木は風にさらされれば、必ず揺れ動きます。まさかあの大木が! 何百年とそびえ立つ大きな木が、台風で根こそぎ倒されることも珍しくありません。

パウロも、度重なる試練と苦しみの中で、何度、心が折れそうになったかわかりません。長い間、キリストを信じ歩んできた偉大な伝道者でもそうなのです。まして、信仰を歩み始めてまもないテサロニケの信徒たちは、同じ苦しみの中で、どうなってしまうか。気がかりでならなかったのも、わかる気がします。居ても立っても居られず、テモテを送りました。

テモテに託した言葉は、この手紙の文面からもうかがえます。あなたがた自身よく知っているとおり、「わたしたちは皆、苦難を受けるように定められています」。まだ、あなたがたと一緒にいたとき、このことを何度も繰り返し言っておきましたが、今またわたしたちは苦難に遭おうとしています。そして事実、その通りになりました。わたしたち信仰者は、苦難を受けるように定められているのです。

だれも、好き好んで苦しみを受けたい人はいません。できれば避けたいものです。ほんの小さな苦しみすら、早く過ぎ去ってほしいと願います。でも、試練や苦しみは必ずやってきます。逃れられません。人は皆だれでも、苦難を生きるように定められています。
苦しみは、神様から来るものです。しかも恵みによって与えられるものです。愛の神が、いったいどうして?何のために? わたしたちが、神の国に入るためです。「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」(使徒14章22)。そう言って初代教会の使徒たちは、信仰に踏みとどまるよう、信仰者たちを励ましました。

ペトロも手紙の中で、こう言っています。「愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないこと…のように、驚き怪しんではなりません。むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに…あふれるためです」(ペトロ一4章12~13より)。

「キリストのために非難されるなら幸いです。栄光の霊すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです」(ペトロ一4章14)。

苦しみのない世界も、苦しみのない人生も、まだ来ていません。この苦しみはいつまで続くのでしょうか? しかし、終わりのない苦しみはありません。まもなく神の国がやって来ます。そこは「もはや死もなく、悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去った」世界です(黙示録21章4)。神がすべてに終わりをもたらす日、すべてを神が新しくされる日を待ち望みつつ、今それぞれに定められた苦難を、信仰をもって生きていきたいのです。

パウロがあれほど、信徒たちのことを心配したのには、わけがあります。苦しみとは本来、神がわたしたちに与える恵みの試練です。しかし、もしそのことを忘れてしまうと、試練はサタンからの恐ろしい誘惑ともなり得えます。「誘惑する者(すなわちサタン)があなたがたを惑わし」、キリストから、神を信頼する信仰からあなたがたを引き離してしまうのではないか? そのため、わたしたちが宣べ伝えたことは、みな無駄に終わってしまうのではないか? そのことをパウロは恐れました。サタンの力を恐れたのではありません。サタンの誘惑にわたしたちが負けて、キリストを忘れてしまうこと。「キリストのために苦しむことも神の恵みだ」という信仰を捨ててしまうことを、恐れたのです。

でも、わたしたちは知っています。どのような恐れ、不安、苦しみの中にあっても、キリストによってわたしたちはすでに輝かしい勝利を収めていることを。「わたしたちは確信しています。死も命も…現在のものも未来のものも、力あるものも…どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマ8章37~39)。

パウロの愛に満ちた配慮は、どのようなときにもキリストを思い、信仰に踏みとどまることでした。最愛の同労者テモテを送ってまでも、わたしたちに伝えたかったのは、神がその御子を惜しまず、わたしたちのもとに遣わしてくださったこと。独り子をお与えになるほどに、天の父は、この世界とわたしたちを愛してくださっている。それ以外にありません。
「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16章33)。

2020年8月16日 聖霊降臨節 第12主日礼拝 説教者:堀地正弘牧師