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恵みの管理人

(オバデヤ書15節、ペトロの手紙一4章7~11節)
主日礼拝説教

恵みの管理人

万物の終わりが迫っている。今日の聖書はそう言っています。しかし、わたしたちは全てのものに終わりがあることなどあまり考えてはいません。むしろ、今日と同じように明日が来る。一年が過ぎても、同じように新しい一年がくる。これからも今と変わらない日々が続くものだと思っています。しかし、聖書は、全てのものには、はじまりがあって、終わりがあると告げています。「全てのものの終わりが近づいています。」。ある者は永遠の救いに入り、ある者は永遠の滅びに定められます。
 終わりの時が一歩ずつ近づいて来ている。終わりに向かって、神は、わたしたちに何を求めておられるのでしょうか。「思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈れ」と。このペトロの言葉は、直訳すれば「正気になり、身を慎み、祈りに向かえ。」とも訳せます。祈るために必要なのは、我を忘れて感情を高ぶらせることや自分の信仰に酔うことではありません。むしろ、目を覚まして、頭をクリアにして神に心を向けていることが必要なのです。「落ち着いて静かにしていなさい」(イザヤ書7章4)。我々の信仰生活に、揺さぶりをかけてくる者たちがいます。どのような揺さぶりを受けても落ち着いていること「目を覚まして祈る」ということです。祈りは現実を無視することでもないし、苦しみを紛らわすための麻酔薬でもありません。苦しみの中でも、頭をあげて神を見ることです。
8:「何よりもまず、互いに愛し合いなさい」。互いに愛し合う。愛は何よりもまず優先されるべきものです。なぜ愛が最優先なのでしょう。それは「愛は多くの罪を覆うからです。」。「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを皆が知るようになる」(ヨハネ13章34~35)。主イエスは、これを最後の晩餐の席で弟子たちに遺言として伝えました。しかし、わたしたちは知っています。わたしたちがどれほど愛に乏しい者たちなのか。互いに愛し合うことが大切であると、分かっていてもできないのです。それは、わたしたちの心が罪の奴隷だからです。そんなわたしたちの心を罪から解放するために主イエスは、世に来られたのです。「あなたがたは、自由を得るために、召し出されたのです。この自由を肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです。」(ガラテヤ5章13~14)。「信仰と、希望と、愛この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは愛である」(コリント一13章13)。互いに愛し合うことは、信仰の中心です。ここでいわれている愛とは、自分の好ましい者だけを愛することではありません。主は「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5章43)といわれます。たとえ敵であろうと、全てのわだかまりを超えて、愛しなさいと主はわたしたちに命じているのです。主は、わたしたちの心に余裕があるときだけ、敵を愛しなさいと言っているのではありません。何故なら主は、十字架にかかっている時でさえ、ご自分を迫害する人々の為に赦しを祈ったからです。だから、わたしたちも互いに欠けがあっても忍耐するのです。わたしたちの天の父は、善人にも悪人にも太陽と恵みの雨を降り注ぐ方だからです。
9:「不平を言わずにもてなし合いなさい」。旅人をもてなすことは、初代教会に於いて大切な愛の業でありました。主イエスが弟子たちを伝道に送り出すとき、このように言われています。旅には、財布も袋も帯の中に金貨銀貨も持っていくな。袋も二枚の下着も履き物も杖も持っていくなと。旅には、何も持たないで行くように。行く先々で人々の施しや愛に頼りなさいと言ったのです。旅先で、必要なものは主が用意してくださから、心配はいらないといっているのです。
もてなしにが大切な理由はもう一つあります。ペトロの手紙が書かれた時代は、迫害の時代でした。ペトロは、単に旅人に親切にすることを言ったのではありません。迫害の中で故郷を追い出されてさまよってしまう兄弟姉妹たちがいることが念頭にあるのです。例えば、パウロの協力者だったアキュラ、プリスキラ夫婦もそうでした。彼らは皇帝の命令でローマから追放されてコリントに来て(使徒18章2)パウロに出会い、協力者になったのです。現代でも、迫害にあって住み慣れた場所を追われる人々や、戦争の為に難民になる人、災害にあって住み慣れた場所を追われる人が出てきます。この言葉によって居場所をなくした人々に宿る場所を与えよと教えているのです。この様に我々は、与えられた賜物を困っている兄弟姉妹たちの為に用いるべきなのです。
10:「あなたがたはそれぞれ、賜物をさずかっているのですから、神のさまざまな恵みの管理者として、その賜物を生かして互いに仕え合いなさい。神は、ある人に語ることを恵みとしてあたえました。ですから、語るものは神の言葉恵みの言葉を語るに相応しいように語り、奉仕する人は、神が(豊かに)与えた恵みの力によって、仕えなさい。わたしたちは、与えられた恵みの賜物を自分のために使うのではありません。全ての賜物は神から出たのですから、神の栄光のため用いられるのです。
神の恵みの現れ方は多様であり、賜物は多様です。賜物に違いはあっても優劣はありません。パウロも賜物の違いを体の一つ一つの部分の働きの違いに例え手優劣はないと教えました。「目は手に向かって『お前はいらない』とは言えず、また、頭が足に向かって『おまえたちはいらない』とも言えません。」。賜物の違いは優劣ではないのだから優劣をつける事は無意味です。こういうことは、この世の中ではよくあることです。しかし残念ながら、教会でもこういうことが起こったのです。キリストが教会の頭であることを忘れるからこういうことが起こるのです。キリストが頭であることを忘れた教会では、この世の人たち以上に激しく互いを裁きあってしまうことがあります。パウロは言っています。「体の中で他よりも弱く見える部分がかえって必要なのです」(コリント一12章22)。わたしたちは、優劣を付けてはいけないものに優劣をつけたがります。
裁くのはわたしたちではなくキリストです。終わりの時は、わたしたちの罪のために十字架に掛かってくださったキリストを迎える日なのです。
キリストは、神の子でありながらこの世の低きところに降りてきてくださいました。主イエスがお生まれになった時に、身を横たえたのは固く冷たい汚い飼い葉おけの中でした。公の生涯の中で御子は、世の罪人たちと共に歩まれました。ある時、主イエスは、招かれて食事の席についていました。主イエスの傍に、罪人と呼ばれた女が近寄ってきました。彼女は、自分の髪の毛で主の足をぬぐい、香油を塗ったのです。人々は彼女の姿を見て憤り、足に香油を塗られて黙ってみている主イエスを見てぶつぶつと不平を言い始めました。しかし主イエスは、彼女の信仰を受け止めてこう言われました。「この人を見ないか。…この人が多くの罪を赦されたことは,わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は愛することも少ない」(ルカ7章44~47)。彼女は「愛は、多くの罪を覆う」という御言葉を身をもって現した人です。わたしたちは、彼女から主を迎える準備とは何なのか教えられます。キリストを迎えるための準備とは、互いに愛し合い、欠けがあっても忍耐し合うこと、敵をも愛することです。「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」(マタイ6章14~15)。主がわたしたちに向けて下さった憐みの心で、互いに愛し合いましょう。

(説教者:堀地敦子牧師)