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主の平和

創世記2章7節、ヨハネによる福音書20章19~23節
主日礼拝説教

主の平和

「わたしは、見ました」(18節)。マグダラのマリアは、弟子たちに主イエスの復活を伝えました。しかし、弟子たちは復活の知らせを信じようとせず、家の戸に鍵をかけて閉じこもってしまいます。このような行動にでたのは、弟子たちがユダヤ人たちを恐れていたからです。主イエスを十字架にかけたあのユダヤ人たちが、今度は自分たちを捕まえて命を奪いに来るのではないかと、戦々恐々としていました。ヨハネによる福音書には、ユダヤ人たちを恐れる人々が沢山描かれています。心の中でイエスを信じていたのに、誰にも言えない人々(7章13節、9章22節)。あるいは、アリマタヤのヨセフやニコデモのように主の弟子でありながら、それを隠していた人々がいたのです(19章38)。ユダヤ人たちを恐れていたのです。もしかすると弟子たちは、こう思ったのではないでしょうか。自分たちは、アリマタヤのヨセフやニコデモの様に主イエスの弟子であることを隠したりしない。たとえユダヤ人たちの反対にあっても、自分たちだけは、主イエスの弟子として従ってきた。そんな自信が弟子たちの中にあったのかもしれません。しかし、主が逮捕された日、主が十字架にかけられて行く中で、弟子たちの自信は打ち砕かれました。

主が引き渡された夜、弟子たちはある者は逃げ出し、ある者は主を三度知らないと言って拒んでしまった。その日から弟子たちは、この世に対する恐怖に凝り固まってしまったのです。

恐怖に支配された弟子たちの真ん中に、突然、主イエスが現れました。主はこう言いました。「あなたがたに平和があるように」(20節)。主イエスは、弟子たちに手とわき腹をお見せになりました。弟子たちは、主を見て喜びました。主が見せてくださったその手には、あの十字架の時の釘の跡があり、わき腹には兵士が槍で貫いた傷跡がありました。その傷は、ここにおられる方が、わたしたちの罪のために十字架にかけられた主イエスである。そのことを証しする確かなしるしです。十字架にかけられて死なれた主イエスが、復活し生きておられると知ったから弟子たちは喜んだのです。その喜びは、弟子たちにとって十字架の後、始めて味わった喜びです。主の復活により与えられた喜びです。

重ねて主は言われます。「あなたがたに平和があるように」(21節)

主は平和の実現を弟子たちに二度語られています。最後の晩餐の夜、主イエスは、この世に残る弟子たちに平和を約束されました。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな、おびえるな」(14章27)。この約束は、主イエスが十字架の死から復活なさった時に実現したのです。

この世の指導者たちも、我々に平和と安心安全を約束します。しかし、この世がどれほど平和を約束しても実現できないことが多いのです。しかし主イエスの約束された平和は、決してわたしたちを裏切ることはありません。何故なら、この平和は、主イエスが弟子たちに示したあの傷、すなわち主が十字架で受けた傷によって与えられた平和です。すなわち主がわたしたちのために命を捨てられたことによって、獲得してくださった平和だからです。主イエスが獲得されたのは、神とわたしたちの平和です。主イエスは、この平和をわたしたちに与えるために世に来られたのです。

主は弟子たちに大切な使命を与えてくださいました。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」(21節)。復活の主に従うわたしたちは、今主イエスによる平和を伝える使者とされています。

主は弟子たちに息を吹きかけてこう言われました。「聖霊を受けなさい。」主は、かねて約束されたように弟子たちに聖霊をあたえました。聖霊は、この世の誤りを正し、我々を主のもとに導く神の霊です。聖霊を受けることによって、わたしたちは誰でもキリストの中で新しく創造された者となります(コリント二5章17)。

「だれの罪でもあなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でもあなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」これは主が弟子たちに託された勤めであり、後の世代の主の教会に託されている勤めです。主は、教会に主イエスの名によって罪の赦しの福音を宣べ伝えること、御子イエスを信じる者たちに罪の赦しの洗礼を執行するように、聖霊によってその任務を果たして行くようにと仰ったのです。「神が御子を世に遣わされたのは、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている」(3章17~18節)。神は、世の救いのために御子イエスをこの世に遣わされました。世の救いという目的のために教会は、主と共に歩んできたのです。

主の与える平和と喜びが弟子たちを変えました。わたしたちも、主の与える平和と喜びの内に歩みたいです。「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」(14章19節)。

(説教者:堀地敦子牧師)