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主に選ばれた群れ

申命記14章2節、ヨハネによる福音書15章16節
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主日礼拝説教

主に選ばれた群れ

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」

「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと。また、わたしの名によって願うものは何でも与えられるようにと。わたしがあなたがたを任命したのである。」

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」

よく似た響きの言葉が、聖書の別の箇所にあります。ヨハネの手紙一4章10節です(P445)。
 「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」

わたしたちが、キリストを救い主にと、選んだのではありません。キリストが、わたしたちを選び、罪から救ってくださいました。わたしたちがキリストを求めるより、はるか前から、神がキリストにおいてわたしたちを選び、信仰の道・永遠の命への道へと導き入れてくださったのです。

「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選んだ。」

この言葉には、当時のユダヤの背景がありました。そのころユダヤでは、志のある信仰者は、ユダヤ教の教師に「弟子入り」しました。その際、生徒が教師を選びました。すぐれた律法学者や聖書学者を探し、弟子入りして、教えを受けました。あのパウロも、そうした教師の一人でした。

けれども、キリストの場合は、まったく正反対です。師であり救い主であるキリストが自ら出かけて行って、ペトロたちを探し出し、声をかけ、弟子となさったのです。

ペトロだけではありません。取税人だったマタイも、あのザアカイも、みんなそうです。ある日、思いがけずキリストの方からわたしたちを訪ねて来られて、その気もないようなわたしたちに向かっておっしゃったのです。「わたしに従ってきなさい。」 こうして主イエスに従う者たちの群れ、主に選ばれた群れ=教会が生まれました。「わたしがあなたがたを選んだ」とは、まさにそのとおり。キリストは、教会の成り立ちをおっしゃっていたのです。
 
「キリストがわざわざわたしたちを訪ねてきて、弟子になるよう招かれた」。

神が、キリストにおいて、わたしたちを選ばれたのです。このことを旧約聖書 申命記12章1節がこう述べています。「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。主は地の面のすべての民の中から、あなたを選んで、御自分の宝の民とされた」。

しかし、思い違いをしてはいけません。同じ申命記7章にあるとおり、わたしたちが選ばれたのは、他の人びとよりも優れていたからではありません。むしろ、「あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった」。「ただ、あなたに対する愛のゆえに」、わたしたちを救うという約束・誓いを守られたがゆえに、神はわたしたちを選び、「宝の民」となさったのです。

キリストの弟子選びが、正にこのとおりでした。貧しく無学なガリラヤの漁師たち、人びとから嫌われていた徴税人たち、今でいう夜の街で働く女性たち、さらに御自分を売り渡すことになるユダなど、すべてをご存じでキリストは、一人ひとりを弟子に選ばれました。優れているどころか、罪深く、取るに足らないわたしたちを、神の愛のゆえにキリストは弟子となさったのです。

それは、主のお言葉どおり、「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るように」。「わたしキリストの名によって願うものは何でも与えられるように」なるためです。このために、主イエス・キリストが、「わたしたち」を、ご自分の弟子に、「任命」されました。

こうして呼び集められたのが教会です。「任命した」とあります。これは本来、「与える」とか「捨てる」という意味の言葉です。少し前の13節:「友のために自分の命を捨てる…これ以上に大きな愛はない」。主はご自分のことを言っておられます。同じく10章11節:「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」。友のため・羊のため、救い主は惜しまずご自分の「命を与えられました」。ご自分の命をささげて、これと引き換えに、わたしたち罪人を神のもとに選び出しました。罪から贖い、ご自身の教会へと、わたしたちを接ぎ木してくださいました。

この言葉は、15章1節から始まる「ぶどうの木のたとえ」に続いて語られています。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」(15章4)。わたしたちの方からまずキリストにつながる。そうすればキリストもわたしたちにつながってくださる。とはおっしゃっていません。逆です。キリストがわたしたちを選び、ご自身に接ぎ木してくださいました。それで、わたしたちはキリストから命を受け、豊かな実を結ぶことができます。

キリストが、わたしたちを今、弟子の務めに就かせます。教会に使命を「与える」のです。二つのことが言われています。ひとつは、わたしたち教会がこの世に「出かけて行って実を結ぶ」ように。そして、この実が残るように。さらに、わたしキリストの名によって願うものなら何でも与えられるように。この二つの務めは、ふたつのようで実は一つです。

なぜなら、今ここにいるわたしたち一人ひとりこそ、キリストが命をささげて、罪の世界から勝ち取った「実り」だからです。キリストがその命と引き換えに贖い取った教会が、これからも豊かな実を結び、存続していくように。そのために、わたしを信じ、わたしの名によって祈りなさい。あなたがたの祈りを、父なる神はきっと聞き届けてくださる。伝道がもっと前進するように。キリストの弟子として、さらに大勢の人びとが選び出され、教会に接ぎ木され救われるように。教会は、このために祈る務めがあります。そして何にもまして「互いに愛し合うように」。キリストが命がけでわたしたちを愛してくださったように、わたしたちも互いに愛し合うならば。神はわたしたちの内に留まってくださり、神の愛がわたしたちの内で実現されるのです(ヨハネの手紙一4章12)。

主の御言葉にこれまで以上によく耳を澄まし、主の名によって祈り働く群れであり続けたい。それこそが主に選ばれた群れ、キリストを頭とし、キリストの生きた肢(えだ)として、この方につながっている教会です。

(説教者:堀地正弘牧師)