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代えられない務め(音声あり)

民数記3章1~10節、ルカによる福音書18章28~30節
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主日礼拝説教

音声でお聴きいただけます。

代えられない務め

1節「主がシナイ山でモーセと語られた当時の、アロンとモーセの記録は次の通りである。」記録と翻訳された言葉:トーレドートは、系図、由来を表します。創世記5章1節「アダムの系図の書である。」これは、系図なのでしょうか。

2節「アロンの子らの名は」アロンの息子たちの名が出てきます。

由来を表している例は、創世記2章4節「これは天地創造の由来である」。世界各国に国のはじまりの神話があります。聖書における天地創造は、全世界のはじまりを示すものです。聖書は、世界のはじまりが神であることからはじめます。そして、この世に罪と死が入ってきたのは、わたしたちが神から離れたことに由来するといっています。

アブラハムの選びは、アブラハムとその一族だけの物語ではありません。「地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る。」(創世記12章3)。アブラハムの選びは、世界の全ての民の救いのはじまりでした。アブラハムからイスラエルに連なる物語は、わたしたち教会の原点であり全世界の救いの物語です。聖書は創世記から黙示録まで全世界の救済史を書いているのです。

イスラエルが約束の土地へ旅をする姿は、教会は新しいイスラエルであり神の国に向かって旅をする群れであることを表すのです。

アブラハムは住み慣れた故郷カルデヤから行き先も知らないで神の招きに応ええました。イスラエルも、神の招きに応えて、当時世界の先進国で富の集中していたエジプトを捨て、何もない荒れ野の旅に出てきました。イスラエルが、神の召しを受け荒れ野へきたのと同じ様に、わたしたちも主イエスに呼び出されて、神の国を目指しています。

神の民は祭司です。アブラハムが神の怒りによって滅び行くソドムのために祈りました。イスラエルも、世界の中で祭司として選ばれた民です。教会はキリストによって祭司の民にされています。祭司の系統のはじまりは、わたしたち教会の由来でもあるのです。

祭司のはじまりはイスラエル全体のことであり、わたしたちのはじまりでもあります。「アロンの子らの名はナダブを頭にアビフ、エルアザル、イタマルである。これがアロンの子らの名であって、彼らは油注がれて祭司職に任ぜられた」。アロンと息子たちは、祭司として油を注がれ聖別されました。

5~10節

祭司の務めに続いて、レビ人と祭司とイスラエルの全体の関係がどのようなものか書いてあります。レビ人は「彼らはアロンと共同体のために臨在の幕屋を警護し、幕屋の仕事をする。」(8節)。

レビ人の勤めは、一言でいうなら主の幕屋に仕えることです。幕屋の警護をしたり、幕屋を移動する時もレビ人が行います。これらの務めを、レビ人に代わって他の人がすることはできません。レビ人たちは幕屋の近くにいて「移動する際にはレビ人が幕屋をたたみ、宿営する際には幕屋を組み立てる。」(民数記1章51)。

レビ人が何故このように祭儀に関わるのか。その理由は、「わたしはイスラエルを人々の中からレビ人を取って、イスラエルの人々のうちで初めに体を開くすべての初子の身代わりとする。レビ人はわたしのものである。」(民数記3章12)。レビ人はイスラエルの初子の身代わりであり、主に聖別されているので幕屋の務めを与えられたのです。

我々もレビ人と同様に、主によって聖なるものになるように選ばれているのです。しかし、わたしたちは聖なるものになるために選ばれたのに罪を犯します。
「ナダブとアビフは荒れ野にいたとき、規定に反した炭火を主の御前に献げて死を招いた。」(4節)。

アロンの長男ナダブとアビフが死を招いたことについて、レビ記10章に出てきます。二人が、「それぞれ香炉を取って炭火を入れ、その上に香をたち手主の御前に献げたが、それは、主が命じられたものではなかった」(レビ10章1)。彼らの献げた炭火は、主の命じたものではなかった。ナダブ、アビフの場合は、主が自分たちに命じたこと、主の良いとされることよりも、自分たちの良いと思う方法で主を礼拝しました。祭司たちの最初の罪は、礼拝の中で行われました。最初に選ばれた祭司たちの罪は原罪に通じます。

天地創造の物語は、神の祝福と原罪が出てきます。原罪の物語は、最初の人間たち、アダムとエバとカインによって、行われたものです。ここに我々の罪の根があるのです。カインとアベルは共に主を礼拝していました。カインは地の実りを献げ、アベルは群れの中から肥えた初子を捧げました。主はアベルとその献げものを受け入れ、カインと彼の献げものは受け入れてもらえませんでした。カインの場合と、ナダブやアビフの場合も根にあったことがらは一つではないでしょうか。彼らは、人間の目に良いと映ることを選んだのです。カインは、兄弟の命を奪い、アロンの息子たちは自分の命を奪われました。自らの命が奪われるか、兄弟の命を奪うか、いずれにしても罪が与える報酬は死です。我々は、罪の縛りの中に生まれ、神の怒りを受けて滅ぶべきものたちでした。

主の目に良いとされる様に生きること、それは自分の思いを捨てて御心に従うことです。しかし、わたしたちは人としての思いを退けて、神の御心を受け入れることは簡単なことではありません。

主イエスは、神に等しい者であることに固執せず、僕となってわたしたちの身代わりに主イエスの命が献げられました。主の死と復活によって、わたしたちには永遠の命への道が開かれました。主を捨てて逃げた弟子たちも、復活された主イエスによって変えられました。彼らは、人間に従うよりも神に従うものに代えられました。主の復活後の弟子たちは、迫害に遭っても主を宣べ伝えたのです。主イエスによって選ばれた者は、世の人々の為に執り成し、主を証しする務めが与えられています。これは、主を信じる者達の群れ、つまり教会に与えられた務めであり、教会にした担えない務めです。なおこの世では、苦しみ、悲しみ、迫害の日々が続きます。しかし、主イエスは、世に勝っています。やがて神の国を携えてこの世に来られます。その日が来るまで、今日のという日にキリストと共に生きるわたしたちとなれますように。今は恵みの時、救いの時です。

(説教者:堀地敦子牧師)