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神にふさわしく(音声あり)

レビ記11章45、テサロニケの信徒への手紙一2章9~12
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主日礼拝説教

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神にふさわしく

あなたがたが、「神の御心にそって歩むように」。パウロたちは、一人一人に呼びかけ、励まし、慰め、強く勧めます。それは、この信仰に生きる人びとが一人のこらず、神の国とその栄光にあずかることができるように。ただこのことだけを願って、パウロたちは、日夜、神の福音を宣べ伝えました。

日本語の聖書には、「神の御心にそって」歩むように、とあります。しかし、聖書の原文はもっとストレートに、こう言っています。「神にふさわしく」歩みなさい。パウロたちは、どのようなときも、神を畏れ敬い、非難されることのないよう、教会の人びとに誠実に接しました。「神にふさわしく」歩むとはどういうことか、自ら示したのです。

パウロたち伝道者は、救いの言葉を伝えるために、あらゆる労苦と骨折りを惜しみませんでした。しかも、そのことを決して恩着せがましく言ったり、教会の人びとに負担を負わせようとしません。まるで教会に集う人びとを、わが子のように慈しみ、愛し、昼も夜も犠牲を惜しみません。子供を大切に育てる母親のように、またあるときは、子供を厳しく戒め鍛える父親のように、教会を愛し仕えました。

けれどもパウロたちは、自分たちが開拓し伝道して建てた教会を、決して自分のものとは思っていません。教会とそこに集められた者たちを、神とキリストにささげようとします。なぜなら教会は、伝道者・牧師の持ち物ではないし、そこに集められた信徒たちのものでもないからです。教会の主(あるじ)は、主なる神であり、救い主キリストだからです。

罪に陥り支配されたこの世界から、父なる神が、イエス・キリストのもとへとわたしたちを呼び集めてくださいました。キリストを礎また頭として、聖霊なる神が、教会を建ててくださいました。教会はキリストのものであり、キリストの体です。ここに連なるわたしたちこそ、キリストのゆえに、罪から贖い出された神の子どもたち。神のものなのです。教会もわたしたちも、そしてこの世界も、世の終わりには、罪から完全に自由にされて、神のものにされていきます。神ご自身の国とその栄光にあずかることこそ、わたしたちの望みであり、父なる神がわたしたちに望んでおられることなのです。

「神の御心に沿って歩む」、すなわち「神にふさわしく歩む」とは、どういうことを言うのでしょう。パウロがしたように、神の福音を一人ひとりに伝えるために、夜も昼も、休みなく働いてきた。どのようなときにも神を畏れ敬い、どんな人にも誠を尽くし、人から後ろ指を指されるようなことは一切しなかった。パウロはそう言っています。わたしがどれほど犠牲を払い、見返りを求めず、あなたがたが救われるために、我が身を顧みず働いてきたか。わたしの歩みを、あなたがたは見てきたはずだ。わたしのどこにも偽りがないことを、その目で見て知っている。あなたたちはそのことの証人だ。パウロはそう言い放ちます。

しかし、そのパウロがこうも言っています。神様こそ、すべての証人だと。神こそ、わたしたちのすべてを知っている証人。パウロは、人としてできることをすべてやり切った。そう断言します。でもそのパウロが、神様の前では、わたしはどうであっただろうか? そう振り返っています。人として信仰者として、人びとのために、これ以上ない位、信仰と愛と犠牲に生きてきた。でも神様の目には、わたしの歩みはいったいどう映るのだろう? 決して完全ではない。人の目には非難されるところなく映っても、神の前ではすべてが明らかだ。教会の人々の前で、あれほど自信にあふれていたパウロも、人生の最高の証人である神の前に身を低くしています。そして自分が一体何ものなのか、本当のところ、どれだけ神にふさわしく歩んでこれたというのか? すべてをご存じである神に、ひれ伏すのです。

イエス・キリストを別にすれば、この二千年の歴史の中で、パウロほどの模範はいません。世界中の牧師たち・信徒たちにとって、パウロは、まるで完全無欠、無敵の信仰者のようにすら思えます。ほとんどの牧師たちは、自分がパウロの域にまったく達していないことを、負い目に感じています。

ところが、そのパウロは自分のことを、別の手紙でこう言っています。キリストのあまりのすばらしさに、わたしがしてきたこと、誇ってきたことすべては「塵芥」(ちりあくた=ごみ)に過ぎない。かつてキリストを憎み、教会を迫害してきた自分は、「使徒たちの中で最も小さい者」で、「使徒と呼ばれる値打ちもない」(コリント一15章9)。こうも言っています。「わたしは…既に完全な者になっているわけでもありません。ただ何とかして捕らえようと努めている」だけです。わたしは「キリスト・イエスに捕らえられているからです」(フィリピ3章12)。

「神にふさわしく」生きるとは、まさにこういうことではないでしょうか? 人として、信仰者として、ありったけの最善を尽くす。けれども、それでわたしたちは義とされるわけではない。わたしたちを信仰のゆえに義(よし)としてくださるのは神様だけです。人によく思われたいとか認められたいとか、そうした思いから、キリストがわたしたちを自由にしてくださいます。

パウロは知っています。どれだけ、キリストのため教会のために自分を犠牲にしたとしても、キリストがわたしたちのために払ってくださった犠牲に比べるならば、わたしは取るに足りない、と。キリストを宣べ伝え、キリストの教会を御言葉によって建て上げていくために、どれほど産みの苦しみを味わったとしても、キリストは、罪のないご自身の命を捨てて、罪の世界から、わたしたちを取り返し、教会を贖ってくださいました。キリストがわたしたちのために払ってくださった犠牲と苦しみこそが、わたしたちを、今のわたしたちにしてくださっています。この紛れもない事実を受け入れ、証人であられる神の前で、キリストにひれ伏す者たちこそ、真に神にふさわしい。そうに違いありません。

キリストこそ、信仰の創始者であり完成者です。罪からわたしたちを救い、清め、神の国と栄光を受け継ぐにふさわしい者、ふさわしい聖なる者へと、終わりの日にわたしたちを、この方が完成させてくださいます。すでにイエス・キリストによって神の子どもとされているのですから、わたしたちは相続人です。世にある間、イエス・キリストと共に苦しみ、世の終わりが来たなら、キリストと共に神の国と永遠の祝福を受け継ぎます。

パウロを捕らえたキリスト・イエスが、わたしたちをとらえてくださいました。罪人から神の子へと造り変えられる道を、すでに歩み始めています。この道を神が開き、わたしたちを導き入れてくださいました。「わたしは道であり真理であり命である」。この道にまちがいはありません。

2020年6月21日 聖霊降臨節第4主日礼拝 説教者:堀地正弘牧師