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それは神の言葉(音声あり)

イザヤ書48章12〜13、同16節、
テサロニケの信徒への手紙一2章11〜13節
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主日礼拝説教

音声でお聴きいただけます。

それは神の言葉

「事実それは神の言葉」であり、「信じているあなたがたの中に現に働いて」います。パウロはそう教会に語りかけます。昔も今も、同じ神の言葉が、わたしたちをとらえ、導いています。御言葉の主は、きのうも今日も、とこしえに変わることがありません。主は今も生きて働いておられます。救いの言葉、神の御業の中を、わたしたちは生き、歩み始めています。

テサロニケの人びとに神の福音を伝えるため、パウロは、心血を注ぎました。やがてキリストを信じて洗礼を受けていく人たちが与えられ、この町にも教会が形作られていきました。教会の人びとに、ときには母親のように、またあるときは父親のように接し、神にふさわしく歩むよう、信仰者の群れを導きました。「一人一人に呼びかけて」は、神にふさわしく生きるよう、「励まし」「慰め」「強く勧めました」。

パウロが、昼夜を問わず、わが身を顧みることなく、これほどまでにねばり強く、熱心に神と教会に仕えていったのは、神の恵みの力にパウロ自身、捕らえられていたからです。

「わたしは神の教会を迫害した」者であり、使徒たちの中で「最も小さい者」、使徒と呼ばれる「値打ち」すらないのです(コリント一15章9節)。そう告白しています。そのパウロが、しかし、すぐにこう言っています。「神の恵みによって、今のわたしがあります」。「働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです」(同10節)。

神の恵みがパウロを捕らえました。キリストの恵みが全身をかけめぐり、福音を伝えずにはいられなくされました。神の恵みに駆り立てられて、パウロは、キリストを宣べ伝えることに自分をささげたのです。

パウロはテサロニケ教会に集まる一人一人に呼びかけました。神の恵みによって歩むように「励まし」「慰め」「強く勧め」ました。原文を読めば、ここにもっと豊かなニュアンスがほとばしり出ているのに気づきます。パウロは、一人一人を「そばに呼び」、「語りかけ(話しかけ)」、「神を証人として呼んだ」。そして神の前で、おごそかに命じたのです。神の国の栄光にあずかるように、神がわたしたちを「招いて」おられる。そう告げました。わたしたち一人一人を、今日も、父なる神が「そばに呼び」、御言葉をもって「語りかけ」、救いの道を歩みつづけるように励ましておられます。パウロが教会の一人一人にしたことは、まさしく、神がキリストを通して、神がわたしたちにしてくださったことでもあるのです。

神の恵みにとらえられる前のパウロは、キリストがわかりませんでした。信じられませんでした。そのため神の教会を根絶やしにしようとしてしました。このパウロに、復活の主が現れ、語りかけました。不信仰な迫害者パウロを、キリストが御自分の「そばに呼び」、親しく「話しかけ」、御言葉をもって「勧め、励まし」導きました。これこそ神の恵みです。

神の言葉は生きております。神に背き続けるわたしたち、そばに招き寄せ、赦し、わたしたちの耳元で、今も父はささやき、呼びかけています。この神からの語りかけに、応えてきたのが教会です。教会は二千年間、この声に、神の言葉に耳を傾けてきました。ほんとうなら、神様に言葉をかけていただく値打ちも資格もありません。しかし、わたしたちを罪から救うため、独り子キリストを十字架の死に渡した神は、恵み深いゆるしの心で、わたしたちに声をかけ続けてくださっています。このこと自体が、まさしく神の恵みです。神の恵み、その豊かさ、神がわたしたちのすぐ近くにいてくださることを、神の言葉によって今も味わい、かみしめることができます。これほどの恵みは、教会でしか味わえません。神が聖霊によってお立てになったキリストの教会、ここにこそ神は生きて働いておられます。

生ける神の働きに触れて、わたしたちは信じました。いえ、信じさせられました。目には見えなくとも、生ける神の言葉が、今も教会で、わたしたちの内で生きて働いています。そう確信させられています。

わたしたちはすでに知っています。教会で宣べ伝えられている言葉。これは人の言葉ではない。たしかに人の言葉で、人にわかる言葉で語られます。しかし、事実、これこそまさに神の言葉。人の言葉を用いて、神がわたしたちに語りかけてきます。永遠の生ける神の言葉、イエス・キリストが肉をとってこの世界に宿られました。まことに人、まことに神なるキリストの御言葉が、今、礼拝という人間の営みを通して、わたしたちに届きました。信じる者たちを罪から救い出し。わたしたちを励まし、慰め、神の国を受け継なさいと、御言葉によって力強く押し出されています。キリストを信じる者、キリストにならい、神にふさわしい者にしようと、御言葉でわたしたちを新しく造り変えてくださいます。この働きを、神は惜しみません。

教会で語られた神の言葉は、決してむなしく戻ることはありません。御言葉がひと度発せられたなら、それは、教会の建物を越えて、この地域に、世界に響きわたります。この世で苦しみ悩み、嘆き悲しむ人びとへ、慰めの言葉が届けられます。神の国が来るそのときまで、神の言葉、神の恵みの御業が止まることは、決してありません。

今、世界は、これまでだれも経験したことのない試練に、もがき苦しんでいます。しかし、この苦しみ・試練もろとも、キリストがわたしたちを背負ってくださっています。試練はなお続くでしょう。それでも、まちがいなくわたしたちは、神の恵み、御言葉にとらえられています。

「わたしは…あなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」(ヘブライ13章5節)。力強い神の腕が、わたしたち一人一人をとらえて離しません。「主はわたしの助け手。わたしは恐れない。人はわたしに何ができるだろう」(同6節)。「キリストは、きのうも今日も、永遠にかわること」がない(同8節)。わたしたちに差し伸べられたキリストの手に、しっかりつかまって、世界とわたしたちを神の言葉にゆだねましょう。この言葉こそ、恐るべき罪と死から、わたしたちを救い出す神の力、イエス・キリストの十字架の言葉だからです。

「十字架の言葉」は、滅びる者たちには愚かでも、わたしたち救われる者には「神の力」です(コリント一1章18節)。

2020年7月5日 聖霊降臨節 第6主日礼拝 説教者:堀地正弘牧師