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主の契約の箱

民数記10章33~36節、ルカによる福音書9章57〜62節
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主日礼拝説教

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主の契約の箱

33節:「人々は主の山を旅立ち、三日の道のりを進んだ。主の契約の箱はこの三日の道のりを彼らの先頭に進み、彼らの休む場所を探した。」イスラエルが三日の道のりを進んだ。砂漠の旅に慣れていないイスラエルの人々が、どれくらいの距離を進んだのかは記されていません。「三日の道のり」といえば、イスラエルをエジプトから解放させるために交渉したときのモーセの言葉を思い出します。「どうか、三日の道のりを荒れ野に行かせて、わたしたちの神、主に犠牲をささげにさせてください。」(出エジプト5章3)。三日の道のりの意味とは何なのか。それについては、後でお話しします。

契約の箱は、イスラエルの先頭に進んでいます。三日間の荒れ野の旅の間、主の契約の箱が民を先導したのです。契約の箱の中には、十戒のしるされた二枚の石の板とマナ、アロンの杖が収められていました。主がそこに臨在されるしるしです。つまり荒れ野の旅で、主は自ら民の進むべき道のりも、休むべき場所も捜してくださっていたのです。民が安全に道を進めるために、また休んでいる間に、強盗が来て子供たちや家畜が奪われないように、野の獣たちが襲って来ないように、主は、旅に不慣れなイスラエルを先導なさったのです。

34節:「彼らが宿営を旅立つとき、昼は主の雲が彼らの上にあった。」昼の間、主の雲は彼らを覆っていました。「昼、太陽はあなたを撃つことがなく、夜、月もあなたを撃つことがない」(詩編121編6)。砂漠の強い日差しが容赦なく人々を照りつけてきても、主の雲がイスラエルを太陽の強い日差しから守り覆っていました。

35節:「主の箱が出発するとき、モーセはこういった『主よ立ち上がってください。あなたの敵は散らされ、あなたを憎む者は御前から逃げ去りますように。』箱がとどまるときには、こう言った。『主よ、帰って来てください。イスラエルの幾千万の民のもとに。』」これは、主御自身がイスラエルと共にいてくださるように、臨在を求める祈りです。もしも敵に襲われる時があっても、主が自ら立ち上がってイスラエルのため戦ってくださる。契約の箱がイスラエルの先頭を行くのは、しるしであり保証です。

もしイスラエルが主を愛し、主の御言葉に従い、隣人を自分のように愛するなら、また、偶像などに心を奪われず主にのみ信頼するなら、主は必ずイスラエルの為に戦ってくださいます。たとえ敵がイスラエルよりも多くの軍勢を引き連れていても、敵が百戦錬磨の強者だとしても、主はかならず敵を散らしてくださいます。

しかし、イスラエルが心をかたくなにし不信仰になる時、あるいは、イスラエルが偶像を拝んだり、エジプトを懐かしむ、あるいはイスラエルが弱い立場の人々を虐げ、強い人たちの意見ばかりを聞き入れて、人におもねるようなことをするなら、主は共におられないのです。たとえイスラエルが形ばかり主の契約の箱を先頭に立てたとしても。主は、イスラエルと共にいてくださらない。主は、不信仰なイスラエルを罰するために敵の手に渡されます。バビロン捕囚のときも、そうでした。出エジプトの旅は、本当にイスラエルが主と共に歩めるかどうか試される試練の旅でありました。神の与える試練の中で約束の地を目指す旅であったのです。

新約聖書においても信仰は、試練の旅に例えられます。新約の時も、信仰の旅路は決して安易な道ではありません。主イエスに多くの人たちが、従おうとしました。「あなたがおいでになる所なら、どこへでもまいります」(ルカ9章57)。主が行かれるところなら、どこへなりと従うという覚悟は立派です。

信仰の旅路には、様々なつまづきや誘惑が待ち受けています。ある人は主イエスから「わたしに従いなさい」と言われた時、こう言いました。「主よ、まず(第一に)、父の葬りに行かせてください。」(ルカ9章59)。また、別の人はこう言いました。「主よ、あなたに従います。しかし、まず(第一に)家族にいとまごいをさせてください。」(ルカ9章61)。

主イエスは、家族の葬儀や家族への挨拶をしてはいけないと言っている訳ではありません。あなたにはわたしの他に神があってはならない。わたしたちにとって神は唯一であり、何よりも優先すべき方だからです。この二人は、主イエスに従うと言っています。しかし彼らには、主よりも大切な第一の事柄があるのです。この二人のようにわたしたちにも、主よりも大切に思うもの執着するものが沢山あるのです。しかし、主は言われます。「手に鋤をかけてから後ろを顧みる者は神の国にふさわしくない」(ルカ9章62)。わたしたちも、主に従う前に後ろを振り返り、何度心を迷わせてきたでしょうか。

家族、健康、財産、人から受ける賞賛の言葉など、わたしたちには、地上のことで執着して止まないものが多すぎます。

神の国のことなど、わたしたちの心にどれ程の重みがあったでしょうか。わたしたちがどれ程、地上のものに執着しても、わたしたちはそれらを全て地上に置いていく他はないのです。この世で命を長らえる為、あれこれと思い悩んでも、一日すら寿命を延ばすことはできません。わたしたちは皆、罪を犯し、神を離れ、死すべき者となったからです。わたしたちのだれもが「手に鋤を掛けてから後ろを顧みる者」であり、神の国に少しもふさわしくありません。しかし、そんなわたしたちを救うため、神は御子をお与えになったのです。ふさわしくないわたしたちに、神の国と永遠の命を与えるためです。御子イエスは、わたしたちが神の国を受け継ぐ為に、全てを投げ打ってくださいました。主が十字架で死に、三日目に死者の中から引き上げられました。十字架から陰府へくだり、死人の中から引き上げられた主イエスの、たどった三日の道のり、これこそがわたしたちへのしるしです。主イエスを信じるもの死んでも生き、主の再臨の日に神の国を受け継ぐからです。

「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って神の国を言い広めなさい」(ルカ9章60)。この世では、わたしたちを誘う様々な声が聞こえます。しかし、わたしたち教会がます第一とすべきは、神の国の福音を宣べ伝えることなのです。

2020年9月13日 聖霊降臨節 第16主日礼拝 説教者:堀地敦子牧師