トピックス

神の国の食卓

ゼカリヤ書9章9~11節、ルカによる福音書22章14〜23節
お知らせ
主日礼拝説教

音声でお聴きいただけます。

神の国の食卓

ついに待ち望んだ日がやって来ました。7か月ぶりに、聖餐式を祝うことができるのです。ひとつのことをこれほどまで待ち望んだことが、今まであったでしょうか。神に感謝します。

今朝の聖書をみると、この聖餐式を、わたしたちよりも、もっと切に待ち望んでおられた方がいたことに気づかされます。イエス・キリストです。キリストは最後の晩餐に際して、このように言われました。15節:「(わたしは)苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、切に願って(望んで)いた」。ここまでキリストが、御自身の願いをはっきり表すのは珍しいことです。それほどキリストにとって、最後の晩餐は大切なものでした。

ここから知らされます。わたしたちが聖餐式にあずかる理由は、実はわたしたちの中にあるのではなく、キリストにあるのだと。ここでキリストは、聖餐式にあずかる理由を二つ述べておられます。

ひとつめ。聖餐にあずかるとは、世の終わりにもたらされる「神の国を待ち望む」ことです。キリストはこうおっしゃっています。16節「神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの…食事をとらない」。杯についても、18節「神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決して」ない。事実キリストは、弟子たちとのこの食事を最後に、地上を去って行かれます。次の日の朝には十字架にかけられ、命をささげます。地上での命は終わりを迎えるのです。ですから、過越の食事もぶどう酒も、口にすることは当然できなくなります。キリストにとって、まさに最後の晩餐なのです。

けれどもキリストの目には、はっきりと映っていました。ご自身が復活し、天に昇ったあと、世の終わりを迎えるときのことが。神の国を携えて、わたしたちを迎えに再び来られるとき、わたしたちと神の国で永遠の喜びの食卓を囲むことになる。この神の国での食事を、キリストは待ち望んでおられます。しかも、そこにわたしたちが共にいることを、切に望んでおられます。このことを実現させるため、次の日の朝キリストは、わたしたちの罪を担って十字架につくのです。

さて、食事の席で、キリストはパンと杯を自ら取り上げ、感謝の祈りをささげて、弟子たちに与えます。19節「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」。食事を終えると、杯も同じようにして言われました。20節「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」。

キリストの言葉が、わたしたちの耳に、心に響いてきます。あなたがたのために「与える」、あなたがたのために「流される」。十字架の上でキリストは、ご自分の体と血、すなわち命を、わたしたちのために「与え尽くされ」ました。それが神の意思であり、キリストの切なる願いでありました。このことを、わたしたちは聖餐式で受け取ります。神の愛とキリストの犠牲によって、新しい命を生きるためです。わたしたちが聖餐式にあずかるふたつめの理由・目的が、ここにあります。

この晩餐の終わりに、キリストは、最後にこのように言っています。21節「しかし見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている」。不吉ともいえるこの言葉に、弟子たちは震えあがります。そして議論をし始めます。「いったいだれが、そんなことをしようとしているのか!」(23節)。自分だけはそんなことをしない、皆、そう言い張ったのでしょう。

キリストは、ユダのことだけを言ったのでしょうか? 聖書をみると、このあと12人の弟子たち全員が、キリストを見捨てて逃げ出していきます。キリストを裏切ったのはユダ一人ではありません。形はちがっても、皆が皆、キリストを裏切ったのです。そのことをキリストはご存じでした。裏切ると知っていて、弟子に選んだのです。裏切るとわかっていながら、「あなたがたと一緒にこの食事をすることを切に望んでいた」。そうおっしゃいました。ヨハネの福音書には、こうあります。13章1節「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」。イエスを裏切ろうと決心していたユダのことも、その他の弟子たちのことも、わかっていて、キリストは愛し抜かれました。そのような愛と赦しの食卓、それが神の国の食卓なのです。

このことから、わたしたちは知らされます。わたしたちのだれもが罪人であって、キリストの食卓にはふさわしくありません。神の国の食卓にあずかる資格もありません。だれもが裏切り者であって、自分はそんなことはしない。そう胸を張ってこの食事の席にいれる者は、だれもいないのです。しかし、そういうわたしたちの手に、キリストは手を添えてくださっています。平気で裏切るわたしたちと一緒に、キリストは御自分の手を食卓に置いてくださるのです。いろいろなところでキリストを裏切ってきた。そういうわたしたちを、キリストは選び、最後まで、わたしたちを愛しつづけてくださいます。その証拠が、あの十字架です。苦しみの極みに達してなお、わたしたち罪人を愛することをやめなかったキリスト。ご自身、肉を裂き血を流してまで、なおわたしたちを愛し続けたキリストだから、どんなに恐ろしい罪からも、わたしたちを赦し、救うことができるのです。

教会とは何でしょう。裏切り者の群れです。不信仰な者たちの集まりに過ぎません。しかし、信仰をもって聖餐にあずかるとき、この群れは、キリストが最後まで愛し抜かれた者たちの群れとなります。キリストが肉を裂い血を流して、その苦しみによって、罪の世界からもぎ取ったもの、勝ち取られた群れが教会なのです。だから教会には、希望があります。キリストの望みと願いが、世の終わり・神の国に向かって、まさに今ここで実現していくからです。

2020年10月4日 聖霊降臨節 第19主日礼拝 説教者:堀地正弘牧師