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神からの答え

民数記11章16~25、ペトロの手紙一5章1~7
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主日礼拝説教

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神からの答え

だれもが答えを求めています。苦しいとき、迷っているとき、辛いとき。なぜこうなってしまったのか。答えを探します。でも、だれも答えてくれません。もし答えを与えることができるとしたら、それは神でしょう。神だけが、わたしたちに真の答えを与えてくださいます。

荒野の旅をつづけるイスラエルは、不平をつぶやき、こう言い始めました。「マナは飽きた。エジプトにいたときの、肉が食べたい。」「こんなことならエジプトいた方がましだった」。

不満だらけのイスラエルに、モーセは疲れ果てます。そして神様に訴えます。「もうわたしには無理です。イスラエルの民を導いていくことなど、わたしにはできません」。

主なる神は、モーセに答えます。民の中から70人の長老を選び立てなさい。「彼らは民の重荷をあなたと共に負う」(17節)。もう、あなたひとりですべてを背負うことはない。

民の中から長老を立てる話は、これが初めてではありません。イスラエルがエジプトを出たすぐあとのことです。モーセのしゅうとエトロが訪ねて来て、長老たちを立てるように言いました。「あなたのやり方はよくない」。「ひとりですべてを背負っていたら、民もあなたも疲れ果ててしまう。あなたの荷が重すぎて、一人では背負いきれないからだ」(出エジプト18章12~27)。あれからずいぶん時が経ちました。なのに再び長老を立てよと、今度は神様がおっしゃいます。

おそらく、すぐには長老を立てることができなかったのだと思います。というのも、長老に選ばれるのは、イスラエルの十二部族で信頼のあつい「役人たち」です。彼らは、イスラエルがまだエジプトで奴隷だったとき、エジプトの役人たちの下働きをさせられていた「役人(下役)たち」でした(出エジプト5章15)。モーセがエジプト王と交渉すると、イスラエルの労働はどんどん重くされていきました。(たとえば、主を礼拝しに行かせてほしいと言うなら、レンガ焼きに使う藁を自分たちの手で集めよ。) その後、紅海の海の奇跡で、人々はモーセを神からの預言者と信頼するようになります。でも、くる日もくる日も砂漠の中を旅していると、いったいいつになったら約束の土地にたどり着くのか、モーセは示してくれません。イスラエルの中には、どうもモーセは頼りにならないと思う人たちが出てきても不思議ではありません。つまり、長老を立てようとモーセが呼びかけても、彼らは応じなかったのではないかと思います。

しかし今度は、神様がお命じになりました。70人の長老たちを立てよと。待ったなしです。モーセもイスラエルの役人たちも、神の命に従いました。すると、モーセに授けられた神の霊が、長老たちの上にも注がれ、彼らは預言の言葉を語り始めます。モーセ一人が重荷を負うのではなく、70人の長老が一緒になって、神の言葉で、イスラエルの民を導き始めました。これが、モーセに対する神の答えです。

次に、不平に満ちたイスラエルにも、神はお答えになりました。「もうマナなんか飽きた。肉が食べたい!」。そう言ってモーセをののしるイスラエルに、神自らが手を伸ばし、肉を与えます。それも飽きるほどに! 「主の耳に達するほど泣き言を言い、誰か肉を食べさせてくれ…エジプトでは幸せだった」(18節)。そう訴えるあなたたちのために、「主は…肉をお与えになり、あなたたちは食べることができる」。それも一日や二日ではない。ひと月に及び、「ついにあなたたちの鼻から」、肉が出るようになる。吐き気をもよおすほどになるだろう(19~20節)。

これが神様のやり方です。わたしたちなら、どうするでしょう? 心を込めて贈った物を突き返されたら、もう二度と与えてやるものか! ひもじい思いをして、わたしのありたがみを思い知れ! そう言いたくなりそうです。でも、神様のやり方はちがいます。わたしたちの思いをはるかに越えています。「神様がくれたものなんか、もう見たくも食べなくもない」。もっといいもの、そうだ、エジプトで食べたあの肉が食べたい。そういうイスラエルに対して、「ではあふれるほどに肉を与え、食べさせよう」。神は、強い風を吹かせると、海辺からウズラの大群を呼び寄せ、イスラエルに与えます。あまりの量に、毎日食べつづけ、あまりたくさん食べ過ぎたため、うずらの肉が胃から鼻へと逆流してきます。

どの註解書をみても、「これは、神がイスラエルに与えた罰だ」と書いてあります。しかし神が与える罰は、何と恵みに満ちていることでしょう。泣き言と不平の限りを尽くしたイスラエルに、これほどまで豊かな、恵みあふれる命の糧を、神様は惜しむことなくお与えになります。ここに神の答えがあります。不信仰と罪を重ねるイスラエル。そして、日々、罪を犯さずには生きていけないわたしたち。そういうわたしたちから恵みを取り上げるのではなく、恵みに満ちた罰を、神は与えるのです。

この恵みの罰こそ、主イエス・キリストが十字架の上で、わたしたちのために引き受け、背負ってくださった罰です。罪のない御方が、罪の裁きを、わたしたちに代わって受けられました。自分の命を捨てて、わたしたちにはできない罪の償いを果たされました。

キリストの十字架は、実に不思議です! 主の十字架から、神の限りのない愛と赦しがあふれ出て、今日もわたしたちを潤し、養います。しかし主の十字架には、「苦さ」があります。十字架は、わたしたちへの罪の裁きであり神の罰そのものだからです。この十字架の苦さをしっかり受け止め味わうとき、キリストによる慰めが、わたしたちを包みます。十字架のキリストを見上げる度、こう思わされるからです。「イエス様、あなたを十字架の死に追いやったのは、この私です。私の罪です。」 しかしそのあと必ず、「でもイエスさま、ありがとうございます。このような私のために、あなたが死んでくださったことを感謝します。」 キリストの十字架に込められた苦さを味わえば味わうほど、尽きることのない神の恵みと愛の中へとわたしたちは導き入れられます。これこそが神からの答え、わたしたちに対する神の答えです。

うたがい、まよい、つぶやき、あらそい、絶望、あらゆるものがわたしたちとこの世界を支配しようとしています。しかし、十字架にかかり、よみがえられたキリストは、それらをすでに打ち破っています。わたしたちとこの世界を、力強い御手で、必ずや約束の土地・神の国に導きます。すべての答えは、イエス・キリストの内にすでにあります。キリストこそ神からの答えです。

2020年10月25日 聖霊降臨節 第22主日礼拝 説教者:堀地正弘牧師