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いっそう励むように

申命記5章12~15、テサロニケの信徒への手紙一4章9~12
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主日礼拝説教

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神からの答え

真実な愛を追い求めるように。いつわりの愛から離れ、真の愛に生きるように。そう勧めたあとパウロは、テサロニケの兄弟姉妹たちに、さらにこう呼びかけています。「しかし、兄弟姉妹たち、なおいっそう励むように」(4章10)。

キリストのゆえに神を天の父と呼び、互いを兄弟姉妹と呼び合い愛し合う。神の家族としての交わりを、すでにわたしたちも歩んできました。「どうかその歩みを今後もさらに続けてください」(4章1)。「なおいっそう励むように、あなたがたに勧めます」(10節)。

神を信じる歩みに、終わりはありません。もうこれでいい、ということもありません。神と人を愛することに、終わりはないからです。ともすればわたしたちは、「ここまでやったのだから、もういいだろう」とか、「これくらいできれば大したものだ」。そういって、それまでの努力や歩みにあぐらをかき、満足してしまうことがあります。しかし、慢心することは、信仰と愛に生きるわたしたちにとって、大敵です。信じること・愛することをはじめ、教会の成長と前進をあらゆる面でさまたげる「自己満足」というものを、徹底的に追い出さなければなりません。

今、到達したところで満足することなく、さらに上を目指してほしい。「なおいっそう励むように」。ここでパウロは、愛の「広さ」と「深さ」に生きるよう、わたしたちを励まします。

愛の広さについていえば、テサロニケの教会の人々は、すでに教会の内で、うるわしい兄弟愛を実現していました。そのことはこの手紙のはじめから、パウロが述べてきたとおりです。けれどもさらにもっと進んで、テサロニケの教会内にとどまらず、マケドニア州全土に住む兄弟姉妹たちにも、キリストの愛を実践するよう勧めます。いえ、マケドニア州全体に住むクリスチャンたちの間でも、神に対する愛と信仰のゆえに、あなたがたの名前はすでに響きわたっていました。でも、人びとから賞賛されているからといって、満足してはならないのです。さらにいっそう励んで、ギリシア全土に散らばるクリスチャンたちのために祈り、愛し、仕えてください。

パウロがそう言う背景には、テサロニケが港町で、ギリシア中の人々が集まってくる町だったことも関係しています。地中海世界全体から、この町を仕事で訪れる大勢の人びとがいます。その中にはキリスト者たちもいたはずです。同じ信仰に生きる人びとが旅先で出会って、共に語らい、祈りあう。主にある兄弟姉妹の交わりを楽しむのは、いつの時代であっても、とてもうれしいことです。

けれどもパウロは、さらにその先を見据えて申します。教会の「外部の人々に対しても品位をもって歩み、何も欠けたところがないように」。愛において欠けたところがないように、教会の仲間たちだけでなく、あらゆる人びとに対して、キリストの愛を生きてほしい。愛と奉仕に生きることで、キリストから注がれた愛を全うしてほしい。これこそ、わたしたち教会が、終わりの日まで、品位をもって、神の前を誠実に歩む道です。

ここでパウロは、こんなふうに言っています。「わたしが命じておいたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい」(11節)。ごく当たり前のことに思えるのですが、なぜこういうことを言う必要があったのでしょう。

初代教会の人びとは、「まもなく主イエス・キリストが再び来られる」という生き生きとした信仰に歩んでいました。けれども、これを誤解する者たちが、教会の中にはいたらしいのです。もうすぐキリストが来られて、この世界は終わりを告げる。それなら、毎日あくせく働く必要などないではないか! 明日にも主が来られるかもしれないのに、この世の仕事などしている場合ではない! こうした行き過ぎた信仰に、パウロはノーを言ったのです。

いつ主が来られてもよいように、主が再び来られる日まで、神から与えられた地上の生活を、信仰をもって誠実に送りなさい。教会の仲間たちだけではなく、まだ神を信じていない人たちとも平和に暮らしなさい。わたしたちを迫害する人びとのためにも祈りなさい。愛をもって接しなさい。いつ主が来られて、わたしたちの人生の総決算を始めてもよいように。

「いっそう励んで」信仰と愛の業に生きるように。「これまでの歩みをさらに続けてください」。パウロが、わたしたちを諭し励ますのは、世の終わりに再び来られるキリストを、真実に迎えるためです。そのための備えとして、信仰と愛になおいっそう励むように、呼びかけていたのです。この呼びかけは、二千年という時を超えて、今この時代を生きるわたしたちに向けられたものでもあります。

この真実な生き方へと、わたしたちを招いておられる方こそイエス・キリスト、その御父なる神です。神は、キリストを十字架の上にお献げになるほど、わたしたちとこの世を愛してくださいました。キリストにおいて示された神の愛が、愛の業へとわたしたちを駆り立てます。キリストの苦しみ、そして愛が、信仰・希望・愛をさらに追い求める者へと、わたしたちを変えてくださるのです。

「信仰によって…心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを、愛に根ざし、愛にしっかり立つ者にしてくださいますように。」

「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるか…この愛を知」り、「ついには神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」(エフェソ3章17~19)。

信仰と希望と愛の源は、イエス・キリストです。この方以外に、ありえません。これから共に祝う主の食卓を通じて、キリストの愛の広さ・長さ・高さ・深さを味わいましょう。

2020年11月1日 聖霊降臨節 第23主日礼拝 説教者:堀地正弘牧師