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キリストの誠実

ネヘミヤ記10章29~34節、テモテへの手紙二2章11~13節
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キリストの誠実

約100年ぶりの律法の朗読、罪の告白を伴う共同の祈りがささげられました。それらを踏まえ、人々は神に誓いをたてるために集まっていました。

「これらすべてを顧みて、わたしたちはここに誓約して、書き留め、わたしたちの高官、レビ人、祭司の捺印を添える。…そのほかの民、祭司、レビ人、門衛、詠唱者、神殿の使用人、この地の民と関係を断って神の律法のもとに集まったすべての者も、妻、息子、娘、また理解できる年齢に達したすべての者と共に、そのまことに貴い兄弟たちに協力する者であり、神の僕モーセによって授けられた神の律法に従って歩み、わたしたちの主、主の戒めと法と掟をすべて守り、実行することを誓い誓約するものである。」(1節29~30節)。

ここに集まっていたのは、異民族との関係を断ち、主の律法に従うことを約束する人たちです。「あなたはわたしのものとなり、聖なる者となりなさい。主なるわたしは聖なる者だからである。わたしはあなたたちをわたしのものとするため諸国の民から区別したのである。」(レビ記20章26節)。民がこのように決意したのは、主がわたしたちを世から選び分かち聖なる者とされたからです。「あなたがたは世に倣ってはなりません。…何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」(ローマ12章2)。次に、誓いの具体的な事柄が出てきます。

「わたしたちは、娘をこの地の民に嫁がせず、彼らの娘をわたしたちの息子の嫁にしない」(31節)。これは、純血主義やイスラエル人至上主義ではありません。例えば、モアブ人の女性ルツ(ダビデの曾祖母)のように、生まれは異民族でも、回心しイスラエルの神、主を信じる者は神の民の中に受け入れられます。ルツも含めイエス・キリストの系図に出てくる4人の女性たちは、いずれも生まれは異邦人です。

逆に、生まれがイスラエル人でも心が主から離れるなら神の民の中から断たれてしまうことがあります。モーセもこう警告をしています。「その土地の住民と契約を結ばないようにしなさい。彼らがその神々を求めて姦淫を行い、その神々にいけにえをささげるとき、あなたを招きあなたはそのいけにえを食べるようになる。あなたが彼らの娘を自分の息子にめとると、彼女たちがその神々と姦淫を行い、あなたたちの息子たちを誘ってその神々と姦淫を行わせるようになる。」(出エジプト記34章15~16)。この警告は、まさに異教に取り込まれて主から離れる危険、魂を汚される危険から人々を守るためのものです。

「わたしたちは、神殿での奉仕のために年に三分の一シェケルの納入を義務として負う。それは供え物のパンのため、日ごとの穀物のささげ物のため、安息日、新月祭、祝祭日のため、奉納物のため、イスラエルの罪を贖う贖罪の献げ物のため、すなわち神殿におけるすべての務めのためである」(33~34節)。 

年に三分の一シェケルの納入は、神殿祭儀のための費用、焼き尽くすささげ物、和解の献げ物をささげるための祭壇の火を常に絶やさないようにするためのたきぎの費用(レビ記6章5~6)、神殿の保守修理のために用いられたものです。これらの費用は、神殿の維持、祭儀の継続のために必要なものです。しかし、この掟は長いこと守られてこなかったのです。

「わたしたちはこの地の民が安息日に様々な商品をはじめ、いかなる穀物を持ってきて売ろうとしても、安息日には買わない。わたしたちは七年ごとに耕作を休み、あらゆる負債を免除する。」(32)。これは、七日毎の安息日の遵守、七年に一度土地を休ませること、七年毎の負債の免除の誓いです。どれもイスラエルの根幹ともいえる大事な掟です。しかし、大事な掟なのに守られてこなかったのです。「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」(出エジプト20章11節)。安息日は、主がすべての創造の業を休まれた日である。だから、わたしたちも自分たちの仕事を休む。安息日を守ることも、七年毎に土地を休ませることもどちらも、天地創造の秩序を守るように大事なことです。安息日の律法は、天地創造の秩序に適っています。また七年毎の負債の免除は、主に贖われて奴隷の家から解放された民イスラエルにとって大事なものでした。

安息日を守る、七年ごとに土地を休ませ、負債が免除されること。これらの掟は、わたしたちにとってもこれは大問題です。この世は、神を礼拝することや、創造の秩序を守るよりも、商売、利益を生み出す活動が大事にされます。経済至上主義の世界では、七年毎に土地を休ませるなどもってのほか。土地を遊ばせるなどもったいないといわれます。そのような世界だからこそ、わたしたちが主の安息を守ることが大事なのです。

今、コロナの時代になって自粛の日々が続いています。いろいろな活動が停止されています。そんなとき、わたしたちは、かつてのように活動したいと思います。しかし、経済活動や人の移動など活動を控えることが感染拡大を押さえているのも事実です。それでも、わたしたちは色々と言い訳をして活動を再開したくなります。わたしたちは、体の心配をしてくれる医療の専門家たちの意見を聞かない。わたしたちの魂を守ろうとした主の戒めを、わたしたちが破ろうとします。

安息とは止まることです。主は、この時代のわたしたちに立ち止まって考え直せと言っているのではないでしょうか。

主イエスは、わたしたちのために人となりました。主イエスは、伝道の生涯の前半では、精力的に神の国の福音を宣べ伝え、奇跡を通じて人々に神の栄光を現しました。しかし、主は最後にすべての働きを放棄なさったのです。神に等しい力栄光をもっておられた主イエスが、自ら命を捨て、罪人たちの手に御自分を引き渡されました。「成し遂げられた」(ヨハネ福音書19章30)。御子イエスが、本当に父の託した使命を成し遂げられたのは、十字架の死によるのです。これが主の真実であり、すべての業を捨て父にすべてを委ねられたイエスこそがわたしたちの主なのです。今、わたしたちはすべての業を休んで、主を見つめることが大事なのです。

2021年2月28日 受難節 第2主日礼拝 説教者:堀地敦子牧師