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あなたの御国へ

詩編69編17~22、ルカによる福音書23章35~43
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あなたの御国へ

イエスよ、あなたが「御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(42節)。キリストと共に十字架につけられた一人が、そう言いました。キリストと一緒…とはいっても、キリストの弟子ではありません。弟子たちは前の夜、一人残らず、キリストを見捨てて逃げ出してしまいました。今キリストと共にいるのは、大罪を犯して死刑にされようとしている二人の犯罪人だけです。一人はキリストの右に、もう一人は左に十字架につけられました。「(彼は)罪人の一人に数えられた」という預言は、こうして実現しました(イザヤ53章12)。

一緒に十字架につけられていたもう一人は、主イエスをののしって言いました。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」(39節)。同じことを、ユダヤの指導者たち、そして死刑執行人であるローマの兵士たちが口にしています。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで選ばれた者なら、自分を救うがよい」(35節)。議員たちにつづいて、兵士たちまで「ユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」(37節)と、この方を侮辱しました。主イエスを「メシア」「選ばれた者」「ユダヤ人の王なら」と呼びながら、だれ一人主イエスを信じていない。

「お前がメシアなら」という言い方は、主がかつて荒野で試みを受けたとき、悪魔が投げかけた誘惑の言葉そのものです。「もし神の子なら…」。人々は文字通り悪魔の手先となって、キリストにあざけりと攻撃を仕掛けます。あざけり、侮辱、ののしり、人間の心の中にある、ありとあらゆる悪意が人々の心と口からあふれ出して、津波のように主イエスに襲いかかります。

これが30年にわたって、主イエスが歩まれたご生涯の結果なのでしょうか。もしそうなら、これほどむなしい最期はありません。あれほど神を愛し、罪人であるわたしたちに仕えてくださったのに。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(34節)。十字架で息も絶え絶えのとき、必死でそう祈ってくださったのに。主の心を知る者はだれ一人いません。

地上でキリストに残された時間も、あとわずかです。そのとき、キリストのすぐ隣にいた一人が、主をののしったもう一人をたしなめてます。「お前は神をも恐れないのか…我々は、自分のやったことの(正当な)報いを受けているから当然だ。」「しかしこの方は、何も悪いことをしていない」。主イエスをののしる者をたしなめた言葉ですが、この言葉自体が、キリストへの信仰告白になっています。
わたしは自分が行った数々の罪と悪事の、正しい裁きを受けています。しかし主イエスよ、あなたはちがいます。あなたは、わたしたちのような罪人ではなく、何も悪いことはしておられません。原文では、「この方は、何も外れたことをしていない」。聖書がいう罪とは「的外れ」のことです。この人は知ってか知らずか、「主よ、あなたには罪がありません」と告白していたのです。

そして勇気を出して、心から願っていることを十字架のキリストに打ち明けます。「主よ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」。「わたしを忘れないでください」「御心に留めてください」と願ったのです。詩編の言葉を思い出します。「わたしの若いときの罪と背きは思い起こさず、慈しみ深く御恵みのために、主よ、わたしを御心に留めてください」(詩編25編7)。

十字架につけられたキリストのすぐ横で、ひとりの罪人が、自分の罪をキリストに打ち明け、罪の赦しを願いました。正確には、「わたしの罪を思い起こさず、ただわたしのことを御心に留めてください」とだけ願いました。「わたしを救ってください」とは一言も言いません。言えなかったのだと思います。自分の人生を振り返って、これまでしてきた悪事と罪の数々に、押し潰される気持ちだったのでしょう。だから、「わたしを救ってください」とはとても言えない。言いたくても言えない。そんなことを願う資格もない。だから、ただこう言うしかなかった。「主イエスよ、どうかわたしを御心に留めてください」。

この男の願いを、主イエスは聞き届けます。それも本人が願った以上に!「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。こうして十字架の上でキリストは、一人の罪人を回心させ、悪魔の支配から神の恵みの中へと、人間を獲得なさいました。

楽園とは、アダムとエバが罪に堕ちて以来、失われていたエデンの園のこと。アダムとエバが追放されたのち、その扉を堅く閉ざしてきた神の国です。この楽園を回復し御国の扉を開くため、キリストは十字架にかかり、そしてよみがえりました。

キリストと犯罪人のやり取りは、とても感動的です。しかし、どこか自分から遠いところで繰り広げられているドラマを見ているかのような感覚にとらわれてしまいがちです。しかし、キリストの左右・両側にいるこの二人は、わたしたち自身のことを指しているのではないでしょうか? 十字架にはりつけにされねばならないほどの罪を、だれもが抱えています。人生の終わり・世の終わりに、その責めを負い、神の裁きを受けなければなりません。そのとき、もし自分一人で十字架にかかるしかないとしたら、その十字架に救いはありません。

しかし、キリストがわたしたちのすぐ隣にいて、わたしと一緒に十字架にかかってくださっているなら、希望があります。主の十字架こそ、わたしたちの救いですから。十字架の上で、向きを変えて横を見つめれば、そこにはまちがいなくキリストがおられます。わたしの罪を代わりに背負い、十字架の上で血を流し苦しんでいるキリストがいます。この主に向き直り、正直に自分の罪を打ち明けさえすれば、キリストはわたしたちを赦し、救ってくださいます。そのときわたしたちは、生き始めます。キリストの御国の中で新しく生きる者とされます。主が御心に留めてくださったその瞬間から、救い主イエス・キリストと共に、主よ、あなたの御国へと歩み出します。今日がまさにその日です。

2021年3月28日 受難節 第6・棕櫚の主日礼拝 説教者:堀地正弘牧師